捨てるも、拾うもなし
おはようございます、けさも早起き、午前中は出かけます。わたしにとって、いろいろとターニングポイントとなる時期が近づいてきているので。たぶん、この、7月くらいまでがひとつの大山でしょう。でも、じわじわ、たのしみながら、コツコツやるけどね。さて、仏教、とくに浄土の教えにおいて阿弥陀如来は「摂取不捨」である、拾いたまいて、捨てたまわず。という、ひたすら、ありがたい教えがあります。
ですが、なにを拾い、なにを捨てるのか、っちゅうことになると、ほんとのところは、ようわからない。それでこの「摂取不捨」を、コスモロジーの底の底のところから見上げてみると「捨てるも、拾うもなし」ということになるでしょうね。でもそれは、どうじに「摂取不捨」なんですよ。はい、またいつもの、わけのわからぬ話に入って参りました。このへんの話はたとえば、道元禅師の『正法眼蔵』とかよんでいると、実に多く出ますね。
拾われたのは誰、捨てられたのは誰、拾われたのも宇宙一杯、拾われたのも宇宙一杯、じゃあ、誰が拾うの?誰が捨てるの?宇宙一杯のわれが宇宙一杯のわれを捨てたり、拾ったりするの?出来るの?っていうことで、それはない、ただ、あるがままなんだよって。それが、まあ、ユング心理学でいうと「対立物の融合」とか「結合」っていうもんじゃないかなと。はい、また訳の分からぬ話入りました!
でも、ここは本当に、重要なところでね、捨ててもいないところで捨てている、拾ってもいないところで拾っている。誰が?あなた以外の誰がそれをしているのでしょう。このことを禅では「本来の自己とはなんだ?」と問うわけです、そう、みんなつながっとるんですなあ。
今日の一冊
いよいよ、読むかあ……ながいんだよ、これ。
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