コスモロジーと、諸教との関わりについての私見
おはようございます、きょうも、相変わらずの早起きです。きのうは良い天気でした。いよいよ、春コートの出番かとおもいながら。そして、へやで飲むコーヒーはおいしい。おいしいので、きのうは二杯飲んだ、午前に一杯、ひるめしごに一杯。実にしあわせ、ということで、きょうも、訳の分からぬ話をして参ります。いぜん、コスモロジーとは「全方位に帰依すること」と説きましたが、これを、もうすこし図式化?してみると、どうなるのか。すなわち、コスモロジーというのは、ひとつの大海です、大海原です。あるいは、生命のソースといってもいい。
そして、その海水が凍ると、氷山がなりたつ。これがもろもろの教えであります。あそこには仏教という氷山がういている、あそこにはキリスト教、あそこにはイスラム、儒教・道教、グノーシス、ジャイナ教、ヒンドゥー教、神道、精神分析、分析心理学、もろもろ。すなわち、全方位に帰依するという、ただ、その、根底的な信頼感というか、おおきなYESというものが、コスモロジーということです。易経でいえば「坤為地」まあ、坤は地ということですが、まあ陰の極致といったところで。帰依というのは、おたのもうしますとたのむこと、或いは単純に「己の鼻っ柱が折れる」ことでもありましょう。
そして、そのことをたとえば、真如といったりブラフマンといったり、グノーシスだと最高神といったり、親鸞聖人でいえば「自然(じねん)」と書いたり。お釈迦様はもっと現実に即して「自灯明、法灯明」と仰いましたが。さいきん流行りの「自己肯定感」というのも、或いはこれをうんと矮小化したものでもあるかもしれませんね。
さて、今日の一冊を
ぜんぶ読む必要はないとはおもうけど、この一冊の、四分の一くらいは、なかなか役立つことが書かれてある、ような。
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