コスモロジーを生きるとは
おはようございます、けさも早起きです。早起きのこつというのは、なんというか、淡々と、ルーティンをこなす、休日でもこうと決めたことをする。そして、あとに思いをひかずにすっと寝る。まあ、その段階でしっかりと体がある程度疲れていることもたいせつですね。時間が余っている、だぶついていたら、そこにルーティンをすこし増やすとかね。まあ、このあたりは、やってみること。かなあ、私もまだまだ、旅の途上にあります。さて、今回は「コスモロジーを生きるとは」ですが、コスモロジーを生きたひととして、私がこう、指摘したい事項は1、「専門」のひとではない2、何をした人なのか、イマイチつかめない3、土地というものと深い結びつきをしている。だから3からすると、漂白するひとっていうのは、こう、あまりあてはまらないかなとも言える。
で、私がそのコスモロジーを生きたひととしてまず挙げられると思うのが、海外ではフロイトとユングのふたり、そして我が国では親鸞と南方熊楠。これにくわえて、富岡鉄斎をあげたいのですが、鉄斎はやや漂白のひとでもありましたから。でも、その、怪しさというかね、そこはすばらしい。あ、あとコスモロジーを生きたひとの4、長生きをした。ってことですね。富岡鉄斎については、ここに所収の「富岡鉄斎」という文章が、まあ名文です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07N84SVF1/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_e9jbGbZF94K8X
鉄斎については、まあ、それを読んでいただくか、たとえばウィキとか辿っていただければとはおもいますが、まあ大器晩成というか、赤貧というか、わかいころは大分苦労をした。そして画に関して、は、余技というかね、ご本人は「儒者」だと名乗っていたらしい。そこがまずアヤシイ。そして、コスモロジーのひとというのは、この国のひととしては珍しく、倫理というものに深くかかわった、まあ親鸞における「信」の問題とか。海外だとユングにおける「善悪二元」の問題、これは『アイオーン』や、グノーシスにまでさかのぼる訳ですが。
コスモロジーというのは6、「道(みち)に沿って生きた人」という意味も持ちますから、皆が皆、それぞれコスモロジーを生きているとも、とれるのですが、これは私の言ってきた、センタリング、ということ、そして、どっちつかず或いは「二兎を追うひと」そこにこそ、まあ、ほのかな「焦点」があるのだと。まあ、中心化しつつ、脱中心化していくというのが、コスモロジーの真髄な訳です。