健康な時にこそ考えたい”生きる価値”について
健康でないときに考えがちな”生きる価値”。
健康でないときには本能が暴走し、視野狭窄に陥り、”自分には生きる価値がないんだ”と考えてしまう。だからこそこれは健康な時にこそ考え、理解しておく必要がある。
今回勉強した動画はこちらです。
要約
”生きる価値”については、長年考えられてきた。特に昔では戦争や飢餓など、生きることが苦しく、死を選ぶ人間も多かった。そのため、宗教によって自殺を禁じ、生きることに価値を置いてきた。
現代では、科学の発展とともに宗教を信じなくなることも増え、科学や哲学で”生きる価値”について考えるようになる。そして、資本主義を基本とした世界において、功利主義(生きていれば、何らかの形で他者に幸福をもたらす)や道具主義(すべての事象に価値がある)の考え方で説かれることが多い。
上記のように生きる価値は時代背景によって変化をしているが、普遍的な考え方として”生きる価値”を考えるうえで外せないのが”本能”である。
本能では”命=価値がある”とプログラムされている。その証拠に睡眠欲や食欲といった、生命維持活動に必要不可欠な欲求が生まれた時から備わっている。
本能によって”生きる価値”を見出していると、健康な時には問題は生じない。健康なときには”生きる価値”を疑わない。しかし、健康でなくなると、”生きる価値”について疑問が生じる。それは本能をつかさどる偏桃体が暴走するためである。その偏桃体の暴走を抑え、理性的に、冷静に考えるために前頭前野をはたらかせる必要がある。そのためには、健康なときに”生きる価値”について論理的に理解しておく必要がある。
見ようと思ったきっかけ
気が付くとよく考えてしまう”生きる価値”について、正解や答えがあるのなら知りたいと思った。
印象に残ったところ
”苦しんでいる人がいたら、助けてあげたいと思う私たちには価値があるし、そう思わせる人たちにも価値がある”
人間の持つ”優しさや愛、思いやりの心”そのものに価値がある。資本主義の現代では、そういった優しさや思いやりの心に触れる機会は少なく感じる。その結果として、社会に対する不信感や生きることに関しての’絶望感を抱いてしまうこともある。そんなときにこの価値観に触れ、人間そのものが存在する価値のあるものであると思えたので印象に残った。
この考え方を常に意識して、他者に優しく、優しさを配れる人間でありたいと思った。
気づいたところ
昔には、飢餓や戦争、病気などの生理的な欲求、安全の欲求について苦しんでいた。現代ではそれらの欲求は確保され、より高次な欲求に対して悩みを抱えている。それゆえに、解決することが一層困難となっているように思う。
道具主義的な考え方は、”自身に起こった良いことも悪いことも含めたすべての事象には、そこから学べる気づきや学びがあり、価値がある”という考え方に繋がる。この考え方を通して、自分がどういう場面でパニックになりやすいのか、どういったことに怒りを覚えるのかを自己分析しており、この考え方を大切にしている。同時にこの考え方は、ネガティブなことが起こった際の反芻思考に陥りそうになったときに、このように考えるように意識してから、反芻思考で悩むことが減った。これからもこの考え方を意識して自己分析を深めていきたい。
学んだこと
実際にうつ症状が強くなると、頭の中では常に”生きる価値”について考え、視野狭窄に陥り、”自分には生きる価値はないんだ”とつらくなっていた。その際に、本能ではなく功利主義や道具主義的な考え方から”生きる価値”を理解していれば、本能の暴走をとどめることができるのではないかと思う。
”自分が生きているだけで喜んでくれる家族がいる”ことを忘れず、”そのつらい経験や苦しみから得られる何かを通して、他者に寄り添うことができるようになる” ”私にしか経験できない体験や気持ち、そこからの学び”を意識して、極端な行為に走らないようにしていきたい。
感想
ふと気が付くと考えがちな”生きる価値”。周りの人に聞いてみると”そんなこと考えたこともない”と言われ、自分は四六時中そんなことばかり考えているのでその返答にすごく驚いた。そんなことばかり考えているから、この病気になってしまったのかとも思い、悲しくなった。でも、私はそういうことを考えるのが好きだし、そのおかげでこうしてブログを書いてみようとも思えた。そしてこのページを読んでくれた誰かに、こういう考え方の人もいるんだとわかってもらえれば、どこかで幸せをもたらすかもしれない。
功利主義や道具主義的で説明された”生きる価値”、それにすごく納得できた部分もある。でも、私は”優しさや愛の気持ちを持つ人間そのものに価値がある”という考え方がすごく好きだし、その考え方をもって過ごしていきたいと思った。
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