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【適応障害になった大学生】  世界は悲しくて大人は寂しい

誰も知らなくていい傷がある。

誰にも知られたくない優しさがある。

だけど、誰かに知ってほしい寂しさもある。

私の中には、ある。

わかってくれることを期待しては、絶望してを繰り返しながら、私は孤独を学んできたのだと思う。

大人になるとは、これまで頼ってきた大人たちを、私が超えていくことだと知った。

大人になるってこんなにも寂しいのですか?

誰もそんなこと教えてはくれなかった。

だけど、私は確かに、知ってしまった。

人間はあまりに孤独で、大人になることはとても寂しいことなのだと。

それならば、何を頼りに私は大人になれば良いのだろうか。

僕が死のうと思ったのは
まだあなたに出会ってなかったから

あなたのような人が生まれた
世界を少し好きになったよ

あなたのような人が生きてる
世界に少し期待するよ

中島美嘉「僕が死のうと思ったのは」

私が好きな歌のひとつ。

私が感じている未来への絶望を埋める何かが、この世界にはまだあるのかもしれない。

まだそれに出会っていないだけなのかもしれない。

だけど、私は知っている。

人が1人死んだところで、世界は何にも変わらない。

ある人が死んだと知らされたその瞬間から、私はもう私の日常の中を生きていた。

その日ことは何度も思い出すけど、悲しくはならなくなった。

それはとても不思議な感覚で、私はそのことを若干13歳にして知ったのだ。

今、私の中に、人の死を悲しむという感情があるのだろうかという考えがふと浮かんだ。もしかすると、私のそんな感情は、もはや消え去ってしまったのではないか。

死というものに対して、諦めのようなそれでいて美しさのような感情を覚えているのではないか。私は冷たい人間なのかもしれない。

もしくは、私はまだ、本当に大切なものを失ったことがないだけなのかもしれない。それはそれで冷たい人間だなと思うけれど。

世界には、遠く離れることで美しく見えるものがあると思う。

今この瞬間は、こんなにも辛く醜いものが、振り返ってみるとなぜだか美しく光り輝いていたりする。

単純だなと思う。

そして、過去を意味づけるのは、紛れもない今の自分であるのだということを、最近強く感じるようになった。

今の私は、いつかの私にとって美しくあるのだろうか。

この痛みと苦しみが、美しさになんて昇華されてたまるものか!という気持ちと、せめて未来では美しくあってほしいと願う気持ちが混ざり合う。

少なくとも、今の私の感性はとても綺麗だと思う。とても敏感になっているから、世界の色々なことに気がつくようになったのかもしれない。

そして、世界は悲しい、大人になるとは寂しいと、心を痛めている私の涙もまた、綺麗だと思う。

死にたいと言いながら、生きたいと言っている私は綺麗なんだよと、私は私にそっと思う。

不幸な自分に酔っているのだろうか。

そう思うならそうかも知れない。

だけど、辛い、苦しい、と言いながら、私はやっと手に入れた人間らしさを噛み締めている。

優しくないと否定し続けてきた21年分の私を抱えながら、やっと優しい人間になれるかもしれないという淡い希望を抱いている。

私はこういう綺麗ごとを、いつも頭の中で唱えてきた。

そんな自分が好きで嫌いだった。面白いことに、好きと嫌いは矛盾しながら、同時に一つの心の中に存在することができるのだ。

好きで嫌いな私を、言葉にして開示することで、その絡まった感情が解けていったりしないだろうか。

うーん。なんでもいいや。どうでもいい。

面倒くさくなってきたので、考えるのを一旦放棄しよう。

とにかく、私は死ぬその瞬間が、人生で一番美しい瞬間でありたい。
美しく散るためだけに、今を生きているのかもしれない。


追伸(日記っぽいことも書いておこう)

今日は所属する合唱団の演奏会だった。本当は舞台に乗りたかったし、歌いたかった。あの素敵なドレスを着たかった。今の私には音楽を楽しむ気力すらないのかと思うと少し悲しい。最近は音楽を聴くのすら億劫になっている。神様、どうかこれ以上私の大切なものを奪わないでください。


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