【適応障害になった大学生】 病に蝕まれることのない言葉が欲しい。
メンタルを壊してから、「言葉」と向き合うことが多くなった気がします。
以前、「見えないお守り」として私が握りしめている言葉についてnoteを書きました。
しんどくて、辛くて、視野が狭くなってしまっている今、他者からもらう言葉によって何度も救われています。
ですが、私のことを思って発してくれたはずの言葉も、心が受け入れてくれないこともしばしば。
何より、自分自身の言葉さえも、自分の心に届かないことがあるのです。
ネガティブな思考に囚われたとき、ポジティブに考えなくてはと思っている自分がいます。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせ、過去の傷を掘り返しては、過去を意味づけるのは今の自分なのだから無駄なことは何もないと、自分をなだめます。
嫌な記憶がフラッシュバックしては、こんなものに負けてたまるかと、私を大切にしてくれる人たちの存在を想います。
これまでの私の人生を豊かにし、そして私自身を強くしてきてくれたたくさんの言葉たちを何度も頭の中で唱えては、自分を見失わないようにもがき続けているような感覚です。
ですが、最近はそんな言葉たちすらも敵に見えてしまうことがあります。
私を守ってきてくれた宝物のはずなのに、「強くならなければ」と刃を向けられるように感じるのです。
どんな言葉もきれいごとに聞こえます。
頭ではわかっているし、今「自分が取るべき」思考もわかっているのです。
わかっているけどわからないのです。できないのです。やりたくないのです。
「あなたが私に言ったことなんて、私はもうすでに何百回と自問し続けていて、そうすべきなことくらいわかっているの!」と心は叫んでいます。
自分にとって「正しくない」考えに引っ張られていってしまう毎日の中で、必死に自分が正しい、こうありたいと思う言葉を自分にかけ続けているような気がします。
それはなんだか違う気もしています。
だけど、そうしないと今の私には自分を守れない。
もう何もかも辞めてしまいたいと思っている自分に、何度も「正しい」と思う言葉を言い聞かせながら、ただただ積み上げるだけの毎日に、一体なんの意味があるのでしょうか。
人生は頑張り続けるしかないのでしょうか。
頑張らないでいい人生に私は価値を見出せるのでしょうか。
もう一度頑張ることに喜びを見出せるのでしょうか。
「適応障害」について調べていると、何か特定のストレス源があり、そこから離れることで症状は改善していくと書かれています。
でも、私には自分が何に対してストレスを感じているのかよくわからないのです。だから、逃げ方がわからない。
言葉が欲しい。
私が私として、ただこの世界に存在するための言葉。
ただただ悲しいと思うこの世界を照らしてくれる言葉。
病に蝕まれることのない、確かな言葉が欲しい。
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