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【うつになった大学生】    痛みを手放すのが怖い。

母との関係に確かに悩んでいるのに、母と一緒に過ごしていると、わたしへの愛をひしひしと感じるから、それが痛い。

いっそのこと、わたしのことを滅多刺しに傷つけてくれれば、わたしは自分の痛みを抱けるのに。

わたしはどんなに傷つこうと、そのことを認められずにいる。

この愛の先に幸せがあるのだと、ここまで来ても信じている。

愛されているのに幸せじゃない、その自分の傲慢さに嫌気が差す。

けれど、それが共依存なのだと思う。

わたしはずっと、傷つきたかったのかもしれない。

確かに傷ついているのだと、自分の傷を眺めたかったのかもしれない。

本当に傷つけられてやっと、わたしはこれまで抱えてきたかすかな痛み全部を感じられるようになったのだと思う。

わたしの痛みがわたしに降りてきたような感覚。

ちゃんと傷つけられないと、辛い、苦しいと言ってはいけないと思っていた。休んではいけないと思っていた。

だから、わたしは傷ついているわたしが好きだ。

変わりたくないと思っている。

この現状に慢心して、甘えて、あぐらをかいている。

この絶望の中に閉じこもっていれば、わたしはずっとかわいそうなままでいられるから、辛い、苦しいという感情を創り出している。

甘えだと罵ればいい、かまってちゃんだと笑えばいい。

それでも、わたしはそういう、変わりたくない自分の姿を認めて初めて、変わる準備ができたと思っている。

『嫌われる勇気』にもそんなようなことが書かれていた。

わたしはうつになって初めて、わたしの痛みに触れられた。

そして文章をかけるようになった。

わたしの文章は、痛みによって書かれている。

わたしがわたしの痛みと向き合う中で感じたあらゆることを紡いでいる。

だから、もう二度と痛みに呑み込まれたくない。

痛みを抱きながら、そして痛みに触れながら、対話をして、向き合って、言葉にして、一緒に生きていきたい。

それが優しさだと思うし、その優しさが強さになる。

そんな強さがほしい。

簡単に壊れてしまうガラスの強さではなくて、もっとしなやかで、緩やかで、柔らかなつよさを欲している。

わたしはずっと自分のことを優しくない人間だと思ってきた。

けれど大学1年生の夏、「ほのは優しい人だから」と声をかけ続けてくれる大人に出会った。

わたしはその言葉を否定し続けてきたけれど、うつの波に揺られながら、わたしはほんの少しだけ優しくなれたかもしれないと心が綻んだ。

優しくなることを望んでいる限り、わたしは優しい人間で在れるのかもしれない。

わたしはこの痛みを手放すのが怖い。

それは優しさを手放すことのように思えてならないから。

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