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【適応障害になった大学生】  文章を書きながら私とおしゃべりをしてみる。

私は何でも深く考え込んでしまうタイプのめんどくさい人間だ。

でも、そういう人間だから仕方ない。
やめようと思ってやめられるわけではない。

じゃあ、どうせ考え込むなら、好きなことについて考えよう。好きなことを思い浮かべて、なぜそれが好きなのか、一生懸命に考えてみようか。


友人曰く、私らしい文章というものがこの世に存在するらしい。

それはとっても嬉しい。
文章を褒められるのがいちばん嬉しい。

最近は文章を褒めてもらうことが増えた。

このnoteを公開するようになってから、特に。

母も最近は私の文章をよく褒めてくれる。

だけど、もともと文章が上手だったわけではない。

小学生の頃からよく本を読んでいた割に、中高生の頃はびっくりするくらい文章が下手だった。

大学の自己推薦の作文を読んでも、大学一年生の頃のレポートを読んでも、なかなかに酷い文章を書いている。これを読まされた先生の気持ちを想像すると、申し訳なるほどに・・・(笑)

でも、文章を書きたいという欲求はあって、何度も挑戦した。
その度に挫折してきたので、かなりコンプレックスだった。

大学に入って、文章を書く機会が増えた。

そして、読む本の種類も変わった。というか広がった。

良い文章をたくさん摂取し、それを自分なりに咀嚼し、思考し、駄文を生成し続けた結果、それなりに文章を書けるようになってきた気がする。

「文章を書く」とは、私にとっては自分と対話することだ。

心に浮かんだことを書き留めているうちに、思考が進み、書きたいことが生まれてくる。

最初から書く文章の全てを決めているわけではない。

本について書こう、ご飯について書こう、決めているのはそれくらい。

そして対話を始める。

今日は、「私はどうして文章を書くのが好きなんだい?」と自分に問いかけてみることから。

すると、そういえば、昔は苦手だったよねと私が答える。

こんな感じで対話をしていくことで、私は知らない私を発見していく。

私の心の底にある価値観に気がつくことができる。

だけど、それはとても体力のいる作業だ。

時に知りたくない自分と向き合うことにもなる。

それでも、私はそんなめんどくさいことをしてしまう、厄介な性格なのだ。

たくさん読んで、たくさん考えてきたから、私はそれなりに人様に見せられる文章を書くことができるようになった。

「たくさん考える」というプロセスが、良い文章を書くためにはとても重要なのだろう。

「書きたい」という欲求は、もしかしたら私にとっては「幸せに生きたい」という欲求に近いのかもしれない。

もしそうならば、私は自分の欲求に正直に書きたい。

そして「書く」という行為に丁寧に向き合いたい。

そこに紡がれた言葉は、私と鏡写しだから。

私が最近熱中している「瀬尾夏美」さんという作家さんは、とても丁寧に言葉を操る。他者の語りを文章にするのがとてつもなく上手い。

そこ書かれているのは、紛れもなく「瀬尾さん」の文章なのだけど、その後ろにはちゃんと語り手の姿が見える。

そして、初めて瀬尾さんの朗読を聴いた時、その語り手が目の前に現れた気がした。

感動した。

他者の言葉を、こんなにも上手に紡ぐ人がいるなんて、と。

瀬尾さんとお話していると、瀬尾さんの思考の深さに驚かされる。

雰囲気は明るくて面白いお姉さんなのに、その中には深く鉛のように重い何かが沈んでいる。

瀬尾さんの言葉は、私にとって希望なのだ。

こんなふうに人の痛みに寄り添う文章を書けるなんて、本当にすごい。

先日、友人に「小説を書いてみては?」と言われた。

書いてみたい気はするけれど、私にはまだ書けそうにない。

だけど、いつか私も、瀬尾さんのような物語りを書いてみたい。

瀬尾さんのように言葉を紡ぎ、次の人へ届けられるような人になりたい。

やっぱり、文章を書くことは生きるための営みなのだ。

そして、記録することは、その人の生を次に繋げる営みでもある。

ほら、文章を書いたから、こんな大切なことに気がついた。


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