【適応障害になった大学生】 今はじっくりコトコトされる時間
ずっと自分を律して生きてきた。
中高時代は、毎日朝6時の電車に乗って朝練に行った。遅刻や欠席をした記憶はほとんどない。
定期テストでは、忙しい部活に文句を言いながらも、そこそこ良い成績をキープし続けた。
そして第1志望の大学に入った。
大学に入ってからもそれは変わらなかった。
朝7時からバイトに行ったし、1限にもほとんど遅刻はしない。
3年間で170近い単位を取って、そこそこのGPAをキープした。
朝から晩まで図書館で勉強をした。
それでも一番にはなれた記憶はない。
だからいつでも「足りない…足りない…」そう思って他人と比べては自分を奮い立たせていた。
「私は恵まれているから。」その言葉が自分の首を絞めてきた。恵まれているから、手を抜いてはいけないのだ。恵まれた場所にいることに感謝し続け、最大限の努力をし続けなければならない。
社会では、結果しか見てもらえない。
それは当然だと思う。
同時に、それは残酷だとも思う。
こんなにもたくさんのことをやってきたのに、私には何もない。何も結果を残せていない。
頑張っても頑張っても、最後結果を残すことができない自分は、社会に価値を生み出すことができない人間なのだと思うと、辛い。
こんなにも頑張ってきて、いろんな辛いことを乗り越えてきたのだから、私にしかできないことを成し遂げたいという傲慢さもあるんだろう。
人を見下しているのかもしれない。
私が今この瞬間もここに存在し続ける価値は何だろうか。
もしかすると、私はずっと、頑張っていない私でもここに存在していいよと言ってほしかったのかもしれない。
それは紛れもない親に。
そして、抱きしめてほしかったのかもしれない。
ずっと寂しかったから。
いや、親は見てくれていたのだろう。テストの成績だけじゃなくて、毎日机に向かう私の姿も。
ちゃんと褒めてくれていたと思う。
だけどそうではなくて、すごい!と褒めてほしかったのではなくて、すごくなくてもいいから、あなたはここに存在していていいのだと、そう言って抱きしめてほしかった。
「あんな人間になるな」と誰かを指差して言わないでほしかった。
カウンセリングを受けている中で、私はやっと自分が抱え続けた寂しさに気がついた。
そしてそれは、もはや親に癒やしを求めてはいけないのだ。
この傷は私自身が癒していかなければならない。
私が自分の母親になる必要がある。
そしてなにより、最近思い出したことがある。
私がこれまでいろんなことに挑戦してきたのは、ただの好奇心以外の何物でもなかった。
私は「すごい人」になるためにいろんなことをやってきたわけではない。
最近はあまりに狭い世界にいたせいで忘れていた。
それを旅で出会った十人十色な人たちが思い出させてくれた。
私は「おもしろい人間」になりたい。
少しくらい変人と呼ばれてもいいから、噛めば噛むほど味のある、おもしろい人間になりたい。
だから今は、そのおもしろさに深みを足す時間なのだ。コクを加える時間。
大丈夫。今、私はじっくりコトコト、美味しくなっているぞ。
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