山本周五郎、もう一つの横浜山手|新MiUra風土記
白亜の崖の上で過ごした作家がいた。その仕事場からは海水浴場や別荘、料亭、海苔の養殖をする海が見えた。彼は午前中の執筆をおえると着物に下駄姿で崖と坂で連なる尾根道をたどり巷に下りて散歩することが日常だった。
隣の台地に棲家がある遊歩人の僕としてはこの作家の足跡をたどってみたい。
ここ横浜の本牧、根岸はかつての武蔵国久良岐郡、この尾根道は相模国の三浦半島につながる鎌倉文化圏だ。
横浜にはブラフ(絶壁)クリフ(断崖)の名を冠したマンションや店舗が多い。いわゆる横浜山手は同じ台地ながら元町商店街の背後には高級住宅地が並び、「外国人墓地」「港の見える丘公園」「山手西洋館」などモダニズム横浜の観光資源で人を呼ぶ。
崖の上の作家は山本周五郎。彼が闊歩したもうひとつの横浜山手は、その台地の南側にあり別の味わいがあるのだ(*1)。
横浜の本牧といえば名勝「三溪園」が有名だが、別の丘上には「八聖殿」が威風堂々と建っている(*2)。法隆寺夢殿を模したこの館。市の民俗資料館でマニアックな収集展示とイベントでファンも多い。
一昨年この館で横浜の山本周五郎の連続講座があって、その散歩道が発表された。そして昨春、地域まちづくり団体や周五郎の近親者により、顕彰する記念板「山本周五郎 本牧道しるべ」が三溪園へ向かう交差点近くの本牧三之谷交番脇に建立され、周五郎邸から仕事場への道順がわかる。
丘上の「八聖殿」から坂を下り、本牧元町(旧237番地)の自宅跡を探すがわからない。三溪園に近い商店街の鮮魚店「うおきく」(明治20年[1887]創業)の老店主は周五郎邸や仕事場にも配達していたと言いおしえてくれた。
本牧元町は、多様な顔をもつ本牧エリアのなかで漁村の残り香がする街区。周五郎は装幀家の秋朱之介宅の離れに家族は住み、市電で4駅離れた旅館「間門園」に執筆場兼仮住まいを持った。
「海は足元に迫っているし、房総の山々や、三浦半島の横須賀のほうまで見渡せてとても眺望がいいのです」と自宅から夕食をとどけるのはきん夫人(*3)。
いま本牧間門の段丘は奇跡の様に残っていて、旅館「間門園」は廃業し住宅に建て直しされても、崖からの風景は眺められた。ただ周五郎夫妻が見た海浜の風景は一変して、工場萌え!の石油コンビナートがパノラマの様に広がってしまった。ここで代表作品『樅ノ木は残った』『青べか物語』『さぶ』『赤ひげ診療譚』そして『季節のない街』などを書き上げていたのだ。
周五郎の三つある散歩道の一つをたどろう。「間門園」を下りた交差点には、旧「根岸園」が残っている。保養地だった根岸海岸屈指の料亭旅館だ。裏の旧道には古来の「おしゃもじ様」信仰の稲荷神社に詣り、ここを管理しているなじみのタカイ理髪店に寄る。
「着物姿のじいさんがこの前を歩いていた、そんな有名人だとは知らなかったけどね(笑)」と子どもの頃、周五郎を実際に観たことがある髙井さんは、60年代本牧アメリカンポップスどっぷりの世代。ここは戦前から旧居留地の外国人の調髪をしてきた店だった。
この根岸には新井の名の表札が多くて気になっていた。髙井さんは後北條が油壺で落城させた新井城の落武者がたどり着いた岸辺だったという。根岸が三浦一族滅亡に縁があったことに驚かされた(*4)。
さて海岸路から山手の台地へ急坂を上がる。崖にへばり付いた白滝不動尊は中世からの霊地だが、滝の水量はすっかり減ってしまった。いつも息を切らして上り下りする坂。周五郎は和服に下駄では難儀だったろう。
この横浜山手の南側の象徴は旧根岸競馬場だ。そして周囲の道は元町の外国人墓地や関内につながる居留地への回遊道。
横浜でおこった生麦事件でこの台地に居留外国人への配慮から馬による遊歩路が整備されて、幕末に横浜競馬場が開かれた。
いまは根岸森林公園となり、馬場だった芝生と桜のパノラマは絶景だ。とくに競馬場の一等馬見所の3塔がランドマークとして屹立しているのが嬉しい(*5)。
ただ周五郎が歩いた時代は戦後の横浜。この競馬場を中心にした台地は米国軍とその軍属の施設に変わっていた。
意外なことに周五郎は、父がキリスト者でありじぶんは正則学園(明治29年[1896]創立)の夜学で英語を学んでいたので、日々の会話に英単語をはさむのを好んだ。時代小説のイメージがある作家は占領軍下の本牧アメリカ文化は居心地がよかったのかもしれない。
いま公園も含めて広大な旧占領軍施設は横浜市に返還されたがいまだ鉄条網に囲まれたままの場所があちこちに残る(米海軍消防隊含む)。
さて競馬場を過ぎて周五郎が見たものは大芝台の根岸共同墓地だろう。丘上から窪地の底へ墓石碑群がひろがって圧倒される。墓地内をさまよう周五郎は、「ご苦労さまでした」と墓に頭を垂れタバコをふかし一刻をすごしたという(*6)。
それにしても横浜の中心部に、死の都があったとは。そばの華僑の墓苑「中華義荘地蔵王廟」が天上の楽園のようにも見える。平楽のバス道を中区から南区へ坂を下る。数ある坂で周五郎は大坂を使ったらしい。
『季節のない街』は、時代小説が多いなか黒船明の映画『どですかでん』の原作になる異色な作品だ。「ここには時限もなく地理的限定もない」、匿名の街だという。それは下町のシリアスで滑稽な人間ドラマだが、街のモデルが実在すると知ったのは僕が横浜に転居してからだった。同じ地区に在住する横浜遺産発見のNPOの遊歩人に案内してもらった。
それはさきの根岸森林公園から中村川の河岸に下ったところ。高い崖に抱かれように、路地と長屋と銭湯、飯屋や角打ち(酒屋の立ち呑み屋)があり、昭和が午睡してるような街並だ。小説家はここの夫婦家族に身を寄せて聞き耳をたて、その性的なきずなに驚き呆れ、たくましき生き方を描いてみせた。そこには浦安の『青べか物語』の「私」はなく、匿名の人びとの愛おしい哀愁とニヒルな街角が浮かび上がる物語だった。
周五郎はさらに川を渡り、いまも開演の大衆演芸場「三吉演芸場」をへて横浜橋商店街を抜けたろうが、その裏手には永真遊郭があり金比羅大鷲神社には、遊廓「富士楼」で育った故桂歌丸さん銘入の玉垣が見られる。
周五郎はとうじ横浜一の繁華街、伊勢佐木町の蕎麦屋「出嶋屋」や場末の映画館を楽しみ、かつて横浜の日本橋といわれた花街(二葉、新川町)、料亭「やなぎ」を贔屓にしていた。
『季節のない街』の長屋のほとんどはマンションになり、「出嶋屋」は数年前に食したが閉業。映画館は若葉町の看板枠と横浜シネマ「ジャック&ベティ」に残り香がするが、花街の見番も消えて街の記憶をたどるのは難しい。
山本周五郎が日課のごとく歩いたのは横浜の港や関内ではなく関外。そこは周縁部の台地と断崖と谷戸の連続だった。楽な道ではない。戦後日本から、文明開花や幕末を超えて戦国期や鎌倉時代の崖の地霊、磯場の信仰の宿る土地だった。そして市井の人々の息づかいがする巷。
山本周五郎が執拗に歩いた理由はまだ掴めないが、それは彼の文学世界の中にしか見つからないかもしれないと、さいきん思いはじめている。
文・写真=中川道夫
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