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西陣の栄華を偲ぶ花街上七軒と昭和女流文壇のスター円地文子|偉人たちの見た京都
偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京の魅力を伝える連載「偉人たちの見た京都」。第34回は小説家としての不遇な時代を過ごしつつも書き続け、女流作家として史上2人目の文化勲章を受賞した円地文子です。著書『女の旅』で、京都で最も歴史のある花街、上七軒について綴ります。
京の花街・上七軒の起り
花街(通称はなまち)とは、お座敷で芸妓や舞妓の舞踊などの諸芸を楽しめる店がある街のこと。語源は中国の古語「花街柳巷」「柳巷花街」にあるとされ、「花街」は花の咲いている街、「柳巷」は柳の木を並べて植えてある街路を指しました。かつて色町には柳や花が多く植えられていたからとも、遊女を柳や花にたとえたからともいわれています。花柳界という言葉もここから生まれました。
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京都には花街と呼ばれる街がいくつかあります。代表的な場所は、祇園甲部、祇園東*、宮川町、先斗町および上七軒。この5箇所を総称して五花街と呼び、これに島原を加え、京都の六花街と呼ぶこともあります。このうち島原と並んで、最も古い歴史を持った花街が北野天満宮の東側に位置する上七軒です。
*明治に入り祇園甲部から分離独立。甲部に対し祇園乙部とも称された
京都の上七軒も北野に近い古い花街としてばかり前から名は知っていたが、その由緒については今度はじめて聞き知ったのであった。
北野天満宮は王朝時代に菅原道真の霊をこの地に祭って以来、京都でも格式の高い神社として尊崇されつづけて来たが、室町時代に社殿の改築の行われた時、あたりの者がその余材を請い受けて、東門前に七軒の水茶屋を開いたのが、そもそも上七軒の起りであったという。
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こう記すのは昭和女流文壇のスターとして長く活躍した作家の円地文子(1905~1986年)。1980年に刊行した『女の旅』という紀行文集の中で、上七軒について次のように語っています。
大きな神社仏閣の周囲に門前町の開けるのは自然な成行きであるし、北野のような京の郊外を松原づたいに参詣人が歩いて来れば、休みどころを求めるのも人情の常であったであろう。
豊臣秀吉に商いの特権を与えられた七軒の茶屋
この門前の七軒の茶店が、桃山時代までつづいていて豊太閤が北野の大茶ノ湯を催した折、七軒茶屋で作って献上したみたらし団子が大層気に入り、その褒美として、「山城一円の法会茶屋株」という権利を得たのが上七軒の花街になる元だったといわれている。祇園は白拍子の流れを汲んだ点で、格式を保っているらしいが、ほんとうに古い遊里は上七軒だというのが、ここの人たちの誇りであるようだ。
全く、北野天神の東側の門を出て通りをぬけると、すぐ上七軒の外れに当るところに出るから、門前町が発展して、色町になったというのは、嘘のないところであろう。ここも元は社家のあるところだったのがいつか娼家に変ってしまったのだともいわれている。(略)
遅咲きの女流作家が花開くまで
文子は1905(明治38)年に、現在の東京都台東区浅草橋に生まれました。本名は富美。父親は東京帝国大学教授で言語学者の上田萬年。父母や祖母は歌舞伎や浄瑠璃など江戸の頽廃文化を好み、幼少期からその影響を受けて育ちます。10歳ころより『源氏物語』などの古典を読み始め、歌舞伎にも親しみます。10代前半には谷崎潤一郎、泉鏡花、永井荷風らの小説や外国文学にも触れるようになりました。
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当初、文子は劇作家を志し、女性文芸誌「女人藝術」や「新潮」「文藝春秋」などに戯曲を発表し、1935年には最初の戯曲集『惜春』を上梓。好評を博します。その後、小説執筆への意欲が高まり、翌年には最初の小説を発表。1939年には小説集も刊行しますが、戯曲に比べるとその評価は芳しくなく、不遇の時代が長く続くことになります。
この間、私生活では24歳で結婚。一女に恵まれますが、小説が世間に認められず、さらに30代に片方の乳房を切除、40代には子宮摘出という女性として大きな病を患ってしまいます。生死の境をさまようこともあり、長い闘病生活を送ることになりました。しかし、この時代の辛い経験が、文子に女性の「業」や「執念」を鋭く見る目を養わせ、円地文学の開花につながっていきます。
戦後もしばらくは小説家としての低迷は続き、当時隆盛だった少女小説の書き下ろしは依頼されても、本格的な小説は文芸誌に掲載さえしてもらえない有様でした。それでも文子は小説を書き続け、1953年、48歳の時に発表した「ひもじい月日」が女流文学者会賞を受賞するなど高い評価を受け、遅咲きながら、ようやく文壇に地位を占めるようになりました。
それ以降の文子は、蓄積されたエネルギーを爆発させたかのように精力的に執筆活動を開始。『朱を奪ふもの』『妖』『女坂』『女面』『小町変相』『なまみこ物語』などの秀作を次々に発表。中でも8年超しに完成させた連作長編『女坂』は、母方の祖母の半生をモデルに、封建制の下で生きた明治の女性の抑圧された自我と愛を描いてベストセラーとなり、谷崎潤一郎『鍵』や三島由紀夫『金閣寺』等の有力作を抑え1957年度の野間文芸賞を受賞しました。
1967年からは少女期より親しんだ『源氏物語』の現代語訳に着手。網膜剥離の手術や心臓病のために入退院を繰り返しながらも、7年かけて『円地文子訳源氏物語』全10巻を完訳するなど、昭和の女流文壇の花形として活躍します。60代、70代に入っても衰えずに小説を書き続け、女流作家としては2人目となる文化勲章も受賞します。上七軒を訪れたのは、まさに文子が作家として円熟期に入ったころでした。
西陣の奥座敷として栄えた花街・上七軒
上七軒は北野天神と近いように西陣にも近いことは私も知っている。もう十年近い前になるけれども、新聞の連載の取材に西陣を見に行き、何百台も織機を扱っているような大きな工場や綴織や袈裟のような極上の織物を織る店、御召の問屋などを一順見せて貰ったあと、土間に一台だけの機を置いて主婦が一人台にかかっているような小さな機屋の並んでいる細い横町を、織機の音を耳にしながら歩いていると、いつか北野天神の裏へぬけてしまったことがあった。
それゆえ、北野天神を中にして、西陣と上七軒が近いところにあることだけは、東京者の私にも、すぐ合点が行ったから、上七軒という花街が、西陣の人の遊びの場として栄えて来たと聞かされても、すぐなるほどとうなずかれるのであった。
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北野天満宮の東門から上七軒通りを東に進み、千本通りを越えたあたりが西陣になります。京都のみならず、わが国を代表する高級絹織物の西陣織発祥の地であり、織物産業が集中する地域です。
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西陣の名は応仁の乱の時に、西軍の陣地だったところから名づけられたということであるが、ここが高級織物の生産地として、名実共に日本一として発展をつづけたのは、徳川三百年の泰平の間に於いてであった。
品質の良い織物、殊に女衣装の内の最貴重品とされた丸帯類は全部といってよいほど西陣の織元で織られ、この伝統は現在も全く崩されてはいない。西陣にある多くの織元は、高価な衣装を着る女たちの嗜好に応じて、美しい織物をつぎつぎに織り、それを売り捌くことによって、多くの利潤を得た。
西陣の織元には何百年もつづくような家は少ないと京都の人はいうが、それは一つには、衣装というものの浮気な流行に対して織元は弱い受け身であると同時に、その折々の思いつきの図柄や色目の思惑が、当るか外れるかという投機性を多分に持っているためかも知れない。
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従って、西陣の旦那衆といわれる人たちは、派手に金をつかって、色町で遊ぶことにもなるらしく、中には栄えた家が急に零落するような例も少なくないらしいのであるが、その対象として、最も便利に、最も親しみ易く、馴染みあって来たのが上七軒であるらしい。
花街上七軒が西陣の奥座敷として繁栄を極めていた背景に、旦那衆の贔屓があったことは間違いありません。文子が書いているように、着物の世界には流行があり、急に人気が出たかと思うと、あっという間に廃れていくことがあります。そうした、ある意味では博打的な稼業を営む旦那衆にとっては、上七軒はひと時の安らぎの場であり、気散じの場でもあったのでしょう。
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そうした結びつきが、祇園や先斗町などの花街とはひと味違う独特の格式と風情を上七軒にもたらしたとも言えそうです。華やかさの陰に儚さを感じさせる、この街にはそんな気配が満ちているようにも思えます。街の中に西方尼寺という非公開の尼寺があることも、その一つかもしれません。
上七軒の細長い通りの両側には、千本格子の入口や格子窓、その上に壁に縦の棒縞のような窓枠を入れたいわゆる虫籠作りの二階や、簾をかけた古い家が並んでいて、その間を縫って、結構、タクシーやサービスワゴンが駈けすぎて行く。
上七軒通りの両側には、今でも昔ながらのたたずまいのお茶屋が並んでいます。この界隈は京都市の景観整備地区に指定され、電線地中化が完成。常夜灯を設置した石畳風の道路には電柱もなく、夜ともなれば提灯に灯りが入り、格子窓越しに漏れてくる光の中を歩けば、往時の華やかな上七軒の様子が偲ばれます。
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上七軒には、芸舞妓のための歌や舞踊、楽器等の練習場兼劇場である「上七軒歌舞練場」があります。春には花街の先陣を切って「北野をどり」がここで上演され、毎年多くの観客が集まります。また夏には風情のある庭園でビアガーデンが営業され、浴衣姿の芸舞妓さんがもてなしてくださるそうです。一見さんでももちろん大丈夫なので、立ち寄ってみるのも一興でしょう。
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文・写真=藤岡比左志
出典:円地文子「上七軒界隈」『女の旅 円地文子紀行文集第一巻』
北野をどり
[公演期間]
令和7年3月20日(木・祝)~4月2日(水)
[時]1回目 14時〜、2回目 16時半〜
[料]7,000円(お茶席付)、6,000円
☎️075-461-0148
https://www.maiko3.com/kitanoodori/
藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。
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