冬至の柚子湯に込められた“一陽来復”への願い|笹岡隆甫 花の道しるべ from 京都
冬至の家元の表座敷。床脇の違い棚*の下に、白の変形花器を置き、枝ぶりのよい黒松をいけた。添えたのは柚子の実だ。柚子はその色合いがいい。明るい黄は見ているだけで気持ちが晴れやかになるし、緑の葉とのコントラストも鮮やかで美しい。
柚子は、冬至に欠かせない。強い芳香が邪気を払い、厄除けに通じるとされる。冬至=湯治の連想から、柚子湯に入る風習でも知られる。季節の節目にあたり、身を清め、無事に冬を越せるようにとの想いを柚子に託す。大柚子は「大吉」を意味し、その実を懐紙に載せて飾るだけでもよい。小柚子は、花の代わりにアクセントとしても用いる。
作品のテーマは、一陽来復。陰の気が極まり、陽の気が生じるという意味で、冬至の別称でもある。冬至は、一年の間で最も昼が短く、この日を境に太陽の力が再び強まるわけだから、この言葉がしっくりくる。一陽来復は「悪いことが続いた後に幸運が開ける」という意味でも使われる。
柚子栽培発祥の地、京都・水尾の里
京都の北西、愛宕山の南麓に水尾の里がある。山々に囲まれたひっそりとした集落で、清和源氏の祖・清和天皇の出家後の隠棲地だ。柚子栽培発祥の地とされ、冬にこの里を歩くと、鮮やかに色づいた柚子たちが迎えてくれる。京都の隠れた名所であり、ぜひ一度訪れてほしい場所だ。
冬の山は寒々しく見えるが、華道家にとっては赴くにふさわしい場所だ。この季節、山の木々は葉を落とし、太陽に向かって力強く伸びる枝ぶりが顕になる。いけばなでは重なる枝葉を落として自然の枝ぶりを際立させるが、冬はわざわざ引き算をしなくても、味わいのある枝の姿を目にすることができる好機でもある。
いけばなで大切なのは、目に見えないものを見ること
私たちの流派「未生流笹岡」は、流派名に「未生」を冠している。未生とは、未だ生まれず。草木が芽吹く前の冬は、まさに未生の季節と言える。花をいける際には、その花が生まれる以前にまで思いを巡らせなくてはならない、というのが未生の教えである。
言い換えれば、想像力を働かせるのがいけばなだ。子どもたちに花を教えるとき、私は一輪の花を手に取り、「目に見えないものを見よう」と問いかける。子どもたちは、「空気」「生命」「根っこ」「祈り」などと、思い思いに答えを口にする。もちろんいずれも正解だ。
目の前にある切り花には根はないが、地中に根を張り巡らし大地の水や養分を吸い上げたからこそ、植物は美しい花をつける。花は、大地のエネルギーが凝縮したもの、いわば大地の恵みだ。また、これまでたくさんの葉が光合成によって太陽のエネルギーを蓄えたからこそ、植物は花をつける。花は、天の恵みでもある。
天地の恵みの象徴である花を扱う私たちは、技術の上達ばかりに執心してはならない。江戸時代のいけばなの伝書には、天地創造以前にまで遡って自然の摂理を感得しなければ、理想の美は実現できない、と書かれている。花を通して、宇宙の過去や未来、人間の生きる意味について想いを馳せるのがいけばな。いけばなは単なるアートではなく、哲学でもあるのだ。
文・写真=笹岡隆甫
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