日本人の心を揺さぶる“朽ちの美”|花の道しるべ from 京都
水落ちして変色した蓮の枯れ葉には、独特の存在感がある。金属製の舟形花器に枯れ葉を立ち上げ、そこに明るい色合いの秋草を添えてみた。明暗の対比で、枯れた葉の存在感が一層際立った。
古来、蓮には「三世」と呼ばれるいけ方が伝えられている。三世とは現在、過去、未来の意。高さの異なる3本の枝で構成するのだが、丸く開いた葉、朽ち葉、そして「角葉」と呼ばれる開く前の巻き葉の3種を合わせいけ、それぞれが、現在、過去、未来を象徴する。ちなみに、3本の花で三世を表現する場合は、開いた花が現在、花弁が落ちた後に残る花托(蓮の実がおさまる蜂の巣のような部分)が過去、蕾が未来を表す。いずれにせよ、一瓶のいけばな作品に、過去から未来までの時間経過を秘めるわけだ。特に、朽ちて破れた葉や花びらがなくなった花托までが花材として用いられるのが興味深い。
「朽ちの美」は古くから、日本人の心を揺さぶるものだったのだろう。私たちは、蕾だけを賞玩するのではなく、満開の花だけを賛美するのでもない。散りゆく桜花を愛おしみ、そのはかなさに時には涙を流しつつ、翌年の桜花を待ち望む。苔むした庭に落ちた真っ白な夏椿の花に目をとめ、そこに新たな美を見出す。日本人は、凋落にこそ、命の尊さを見るのかもしれない。
[琳派400年記念]プロジェクションマッピングでいけばなの「朽ちの美」を表現
琳派400年記念の年に、「朽ちの美」をテーマにした試みに挑戦した。京都国立博物館でのプロジェクションマッピングに、映像を担当された京都大学の土佐尚子教授*からお声がけいただいたのだ。尾形光琳の「紅白梅図屏風」や「燕子花図屏風」を連想させるいけばなを映像でご覧いただくことになった。但し、美しく咲き誇る様だけではなく、「朽ちの美」を表現してほしいというご要望だった。
京都大学の実験室で液体窒素の中に花を浸ける。凍った花を数秒でいけあげ、いけた花の茎にエアガンで弾を当てる。茎が振動して花弁が落ちる瞬間を、ハイスピードカメラで撮影。肉眼で見ると撃ってすぐ、一瞬で花弁は落ちてしまうのだが、8秒の映像を3分に引き伸すと、花弁がはらはらと舞うように散る様が見えてくる。
このプロジェクトにお声がけいただいた際、しばし逡巡した。花が可哀そうだとクレームが出る、異端扱いされるのではないかと、躊躇したのだ。いけばなでは「蕾がちにいけよ」が原則で、通常は蕾から開いていくまでの移ろいを見せる。だから、開き過ぎた花は取り去る。朽ちる様を不特定多数の方にご覧いただかないのは、その花を見ることで痛々しい気持ちになることを避けるための配慮だ。しかし、花をいけた華道家は、盛りを過ぎた花を持ち帰り、その花が朽ちるところまで世話をする。朽ちる様を目にするからこそ、花の命を肌で感じ、その美しさを極限まで引き出したい、そしてその美を少しでも長く留めたいと願う。実は、朽ちた花を見ることで学ぶことは多い。
そんな時、ある一枚の絵を思い出した。それは、退蔵院襖絵プロジェクト*を担当していた村林由貴さんが、習作として墨で描いた崩れた牡丹の花。その絵の横には、崩れた牡丹の鉢が実際に置いてあったのだが、生で見ていると黒ずんでいるし、臭いも悪く、痛々しい気持ちになる。しかし、それを日本画というフィルターを通して見ると、なぜか美しく見えた。もっと言えば、新たな命を付加したように見えたのだ。今回の試みでも、映像というフィルターを通すことで、「朽ちの美」が表現できるのではないかと考えた。実際、満開の花を凍らせて散らすことで、桜吹雪のように美しいまま散る風情を表現することができた。
この映像作品は、本当に大勢の皆様にご覧いただき、概ね好評を得た。私の耳には届いていないが、それでもやはりご批判はあったと思うし、失敗だとおっしゃる方もいるだろう。挑戦のほとんどは失敗に終わるのだろうが、100の失敗の後で、1つでも成功が生まれれば儲けものだ。
桜散る こぼるる梅に 椿落つ 牡丹崩れて 舞うは菊なり*
朽ちの美。年を重ねるごとに、ますますその美しさに魅入られている。
文・写真=笹岡隆甫
▼京都国立博物館での琳派400周年記念プロジェクションマッピングの様子(笹岡さんの燕子花の映像が現れるのは4:50)
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