芥川龍之介が未完で残した随筆に描かれていた青蓮院の庭|偉人たちの見た京都
近代日本文学を代表する文豪・芥川龍之介(1892~1927年)。芥川賞はその名に由来する文学賞であり、日本で学校教育を受けた方なら、おそらく知らない人はいないはずの国民的作家です。彼の作品も一つや二つは教科書などで必ず目にしていることでしょう。
龍之介の作品の中には、「羅生門」や「六の宮の姫君」「藪の中」など、一般に王朝物と呼ばれる京都を背景にしたものがいくつも存在します。だが、不思議なことに、小説はあっても、京都を題材にした紀行や随筆はあまり残されていません。
京都が嫌いだったわけではないようです。芥川文学の研究者による組織「国際芥川龍之介学会ISAS」作成の略年譜を見ると、1909年に16歳で初めて京都を旅して以来、35歳で亡くなるまでの間に、家族や友人らと10回近くも訪れています。
その龍之介が京都について語った数少ない例外が、1918年7月に『大阪毎日新聞』に2回にわたって掲載された「京都で」という表題の3篇の随筆です。この作品は後に「京都日記」と改題され、1922年に刊行された随筆集『点心』に収録されています。
龍之介が書いた京都に関する随筆はそれがすべてと思われていましたが、実は「京都日記」の別稿と推測される1篇が、未完のまま未発表で残されていました。それが、今回紹介する東山の寺院、青蓮院の庭を描いた作品です。
小堀遠州の作った青蓮院の庭を、案内の老人と一しょに、ぶらぶら歩いて見た。
青蓮院は東山の山すそ、知恩院の北側に隣接する寺です。代々の住職(門主)を皇室や摂関家の一族が務めてきた門跡寺院。かつては粟田御所とも呼ばれ、1788(天明8)年の京都大火の際には、後桜町上皇の仮御所ともなりました。もとは比叡山延暦寺の東塔にあった僧侶の住坊で、平安時代の末期に移転したもの。門跡寺院中第一の格式を誇りました。
天台宗の寺と言っても、宮殿風の建物に仏堂が付属する形式で、室町時代の作庭家の相阿弥の作と伝えられる主庭と、小堀遠州の作とされる霧島の庭という池泉回遊式*の二つの庭園があります。霧島の庭には、山すその斜面一面にキリシマツツジが植えられており、そこからこの名で呼ばれるようになったと言います。境内全域が国指定の史跡になっています。
相阿弥の実態は史料が乏しく詳細は不明ですが、小堀遠州(政一、1579~1647年)は、安土桃山時代から江戸時代初期まで生きた大名です。武将としてよりも、遠州流を開いた茶道家や建築家、作庭家として名を残し、今日でも高く評価されている第一級の文化人でした。
庭は若葉の下に、うす暗く水気を含んでいる。雨もよいの空を抑えて、梢の重り合った中に、黄色いものの仄めくのは、実梅ででもあろうか。茶室へ行く門をくぐる時に、ぼたりと音がして、麦藁帽子へ落ちたものを見ると、大きな美しい毛虫であった。
古庭はよいものである。ことにこの青蓮院の庭はなつかしい。二度来、三度来た自分でさえ、この若葉のかげを歩いていると、今さらのように世間を雨雲の向うへ、 隔ててしまったような心もちがする。
ここからは広告の看板も見えない。自動車の喇叭も恐らくは聞えなかろう。あるのはただ土塀の中に生きいる自然である。人工の鉄網でうす日の光と吐息ほどの風とをかがった、不思議な茶人の世界である。
――自分は洋服の尻を茶室の椽に下して、もの静な庭内をすかし見ながら、西洋の巻煙草へ火をつけた。煙は冷な空気の中に漂って、容易に流れて行く気色がない。
龍之介は1892(明治25)年に現在の東京都中央区明石町に生まれました。東京府立第三中学(現・都立両国高校)から一高を経て、1913年に東京帝国大学英文学科に入学します。幼少期より読書を好み、翌年に豊島与志雄、久米正雄、菊池寛、松岡譲らと第3次『新思潮』を創刊。処女小説「老年」を柳川隆之助名義で発表します。
1915年には王朝物の第一作となる「羅生門」を発表。その翌年には「鼻」「芋粥」「手布」などの秀作を次々に発表し、新進作家の地位を確立します。特に「鼻」は夏目漱石から高く賞賛されました。
東大卒業後は海軍機関学校(横須賀市)の英語の嘱託教官に就任。2年あまりの期間、教員生活を送ります。その間も、第一短編集『羅生門』および第二短編集『煙草と悪魔』の上梓、初の新聞小説「戯作三昧」を『大阪毎日新聞』に発表など、活発な創作活動を続けていました。龍之介が青蓮院の庭を訪れたのはちょうどこの時代、1917年頃であったと思われます。
自分の後ろには、応挙の描いた襖がある。水とも空とも分らない、鼠色の遠近には、寒むそうな雁が二羽か三羽、翻っているらしい。そればかりか、畳、障子、床柱――どれも皆、時代の寂びがかかっている。
ここにいて、茶を立てたり、香を品したりしていたら、多分は五月雨になったのも、青く苔の蒸した手水鉢の水嵩を見て始めて知るようになるであろう。――それほどすべてが動かない。それほどすべてが、閑寂な世界の中に、じっと息をひそめている。
まだ20代半ばの若き作家は、独り静かに青蓮院の庭を眺めながら、芸術や創作の世界に思いをはせていきます。ちなみに、龍之介が座っていた茶室は、1993年に火災で焼失した昔の「好文亭」と推定されます。
あらゆる芸術は、こういう独特な世界を造るから尊い。その世界は何か、その世界はどうして出来るか、そうしてまたその世界は、他の世界とどういう関係があるか、それはここで 論ずべき問題ではない。と同時にまた、今は格別論じたくも思わない問題である。
が、ここにこうしていると、相阿弥が造り、遠州が造った世界は、その樹木と石とのもの寂びた布置*の中に、昔の日本の茶人が夢みた、青磁の器のような美しさを、徐に自分の目の前へ展開してくれる。
自分はただ、木米の茶碗の手ざわりを愛するように、その美しさにひたされていさえすれば好い。出来得べくんば、何時までも――いや、案内の老人は、すでに待ちくたびれたと見えて、蜘蛛の巣を払いながら、さらに庭の奥の方へ自分をつれて行こうとしているではないか。
自分は巻煙草を啣えながら、またぶらぶら(未完)
龍之介は1919年に「永久に不愉快な二重生活」と嘆いていた海軍機関学校を退職。職業作家として、執筆に専念する生活に入ります。しかし、龍之介に残されていた作家としての時間はそう長いものではありませんでした。
家庭生活では妻との間に三人の子どもが生まれ、作家活動の面でも次々と作品を発表し、1923年までに第三、第四、第五、第六短編集や随筆集を刊行するなど旺盛で順調な活動が続きます。
ところが、元号が大正から昭和に改元される前後から、次第に心身に衰えが生じ始め、神経衰弱や胃腸のトラブル、不眠症などに悩まされます。修善寺や湯河原の温泉宿に湯治に出かけるようになり、発表する作品数も減少し、作品にも私小説的な傾向が現れてきました。やがて、「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」にとらわれるようになります。
1927年7月24日未明、龍之介は致死量の睡眠薬を飲んで自殺を図りました。夫人が異常に気づき手当てを施しましたが、すでに手遅れの状態で、朝7時に絶命します。遺稿として、「歯車」「或阿呆の一生」「西方の人」などが残されていました。今回紹介した青蓮院の庭を描いた未完の随筆を含め、多くの未発表原稿もありました。
龍之介は東京都豊島区巣鴨にある日蓮宗の寺院、慈眼寺の霊園に眠っています。正方形に近いずんぐりした形の墓石は、彼の遺志により、いつも書斎で座っていた愛用の座布団の寸法に合わせて作られたそうです。
出典:「青蓮院の庭(仮)」『芥川龍之介全集 第二十二巻』(岩波書店刊)
文・写真=藤岡比左志
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