カエルが笑った|文=北阪昌人
「課長、オレ、正直、なんでさっき頭さげなきゃいけなかったか、わかんないです。納期の指定日時を間違えたのは、お得意先なんですよ」
部下の林がそう言った。
そんなことは、俺がいちばんわかってるよ、という言葉を飲み込み、
「軽く、一杯、行くか?」
と、林をガード下の居酒屋に誘った。
喧騒の店内。赤レンガの壁に囲まれた空間で気炎を吐いているのは、私たち同様、みんな、スーツを着たサラリーマンだった。
「お得意先のミスだとしてもだ、追い込んでどうする。追い詰めて何の得がある? ビジネスで大切なのは、パートナーには絶えず、逃げ道を用意しておくことなんだよ」
「わかってますけど、でも、なんか、悔しいじゃないですか。先方が間違ったメールを送ってきたのに、納期そのままって」
林の怒りはおさまらない。ビールジョッキを傾けながら、明日、部長になんて報告するかを考える。きっと部長は、嫌味っぽくこう言うに違いない。
「納期に間に合わないって、どういうことですか? なんとかしてください」
部下に責められ、上司に叩かれる。中間管理職の悲哀は、時代が変わってもなくならないのだろう。
コロロロロ~
突然、テーブルの上の林のスマホが鳴った。林は、着信音に気づかない。
「出ていいぞ」
私が言うと、
「あ、お得意先からです。すみません」
と彼は席を立って店の外に出て行った。
着信音がまだ脳内に響いていた。まるで木々が強風にざわめくように、心の奥底がうずく。あの音は何かの音に似ている。遠い記憶がゆっくり立ち上がる。
あれは、そう、小学生のとき、遠足で訪れた、長野県の八島湿原のシュレーゲルアオガエルの鳴き声。
コロロロロ~
湿原に延びる真っすぐな木の板の歩道。鳴き声がどこからやってくるのかわからない。担任の布川太郎先生は、突然、優しい声で言った。
「死んだら死んだで生きていくのだ」
それが何を意味するのか、よくわからない。
「草野心平という詩人がいてね。彼はカエルの詩人と呼ばれていたんだけど、私はね、彼の詩のこの言葉が大好きなんだ。カエルはヘビにのまれても、笑うんだよ、きっと」
それは小学生には理解できなかった。でも、今なら、少しわかる。
林が帰ってきた。
「お得意先、なんか、その、納期をずらしていいって。さっきとは、全然違う雰囲気っていうか……」
私は思わず、言った。
「カエルが、笑ったんだな」
林はポカンとした表情で、私を見た。
文・絵=北阪昌人
※この物語はフィクションです。次回は2023年7月号に掲載の予定です
出典:ひととき2023年5月号
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