黄金に輝く巨大仏とともに、日本と台湾を繋ぐ鐘の響きを想像する(台中)|岩澤侑生子の行き当たりばったり台湾旅(2)
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移動しながらスマホで宿を検索すると、台中に清潔で値段も手ごろな宿を見つけた。台中を拠点にして行ってみたい場所がいくつかあったので、思い切って3日間連泊することにした。9日間のスケジュールの三分の一をひとつのエリアで過ごそうとするあたり計画性の無さが出ているけれど、この選択は正解だった。
宿に到着してテレビをつけると、米国連邦議会のナンシー・ペロシ下院議長が台湾を訪問するというニュースが流れた。それを受けて中国は8月4日に台湾周辺で「重要軍事演習」を行うと発表した。テレビ画面に台湾を取り囲むように中国の軍艦や戦闘機が配置されたイメージ図が映し出される。複雑な歴史のなかで、台湾は常に難しい外交バランスを取らざるをえない。
呑気な旅気分だった私は急に現実に引き戻されたような気持ちになった。あちこち動き回らず、しばらく台中に留まるのは良い選択に思えた。
宿泊先は台中市一中街のなかにある新しいホステル。部屋は狭いけれど、専用のバストイレ付で1泊500元(日本円で約2,200円)くらいだった。一中街は、まわりに高校や大学がある学生街で、百貨店や夜市もあって昼も夜も活気がある。
二日目の朝、荷物を整理して外に出る。夏休み中の学生が友達と羽を伸ばしている。不穏なニュースをみたあとだったので、賑やかな通りを歩く人々の顔をみると心が落ち着いた。
巨大仏と友愛の鐘
一中街を抜けてしばらく歩くと、突如黄金に輝く布袋様が現れた。巨大なのに不思議と圧迫感はない。微笑みを浮かべた仏様は、台湾の風景によく馴染む。
宝覚禅寺は日本統治時代の1927年に建立された臨済宗妙心寺派の寺で、境内には布袋(弥勒)仏のほかに、台湾で亡くなった日本人の骨が埋葬されている「日本人遺骨安置所」や、第二次世界大戦で戦死した台湾人を慰霊するための「霊安故郷慰霊碑」が設置されている。
そしてここ、宝覚禅寺には「岩澤の梵鐘」が鋳造した鐘が納められている。私の祖父と父が手がけた、日本と台湾に縁の深い鐘だ。
鐘の施主は、日本統治時代の台湾で生まれた日本人──所謂「湾生」と呼ばれる方々。施主の一人である堀部二三男さんは台中州立台中第二中学校(通称台中二中)の出身で、戦後に台北高校出身の学友たちが中心となって刊行した『五人』という同人雑誌の同人だった。この『五人』の同人の方々が、鐘の施主として名を連ねている。堀部さんと当時の宝覚禅寺の和尚さんが懇意であったことから、ここに友愛の鐘を奉納することになったそうだ。そして、堀部さんの台中二中からの学友で、同じく『五人』の同人だった服部恭敬さんが「岩澤の梵鐘」とのご縁を繋いでくださった。
コロナのため3年ほど帰国できていなかったので、実家の鐘を台湾で見られるのはとても嬉しい。日本で鋳造された鐘は、台湾でどんな音を響かせているのだろう。
期待を胸に広い境内を歩く。ところが、鐘が設置されているはずの「友愛鐘楼」が見当たらない。宝物館のスタッフの方に聞いてみると「鐘は日本人遺骨安置所の近くにあるよ」とのこと。外に出てもう一度探してみると……もしかして、これ?
雨やほこり除けだろうか、鐘は厚みのあるビニールに包まれていて、ほとんど文字を読み取ることができない。スタッフの方に話を伺うと、地震で鐘楼堂が壊れてしまい、鐘は外の芝生に仮置きしているとのこと。湿気の多い台湾でビニールに包まれた鐘が傷んでしまわないか、少し心配になった。
鐘の形は仏の姿、鐘の音は仏の声
宝覚禅寺を出てバスに乗る。実は台中にはもうひとつ、実家の鐘が納められているお寺がある。京都浄土真宗本願寺派の台湾開教地である光明寺だ。
光明寺は住宅地のなかにあった。コンクリート建ての現代的なお寺だ。1階は本堂、2階は図書館、3階は道場、4階には地蔵菩薩が安置されている。受付にはご住職が座っておられた。事情を話すと、鐘楼堂のある屋上へ快く案内してくださった。
実家の鐘は見晴らしのいい屋上に納められていた。「あなたのお爺さんのこと、よく覚えていますよ」とご住職が優しい口調で仰った。職人気質の祖父は厳格で、時折烈火のごとく怒り、その度に家のなかに雷が落ちた。その様子が恐くてテーブルの下で縮こまってよく泣いた。
でも、梵鐘の火入れ式の日の、鋳型に1000℃を超える高温の銅と錫を流し込む祖父の姿を思い出すと、心が静かになって背筋がピンと伸びる。お酒が大好きだった祖父は、私が高校生のときに実家の廊下で倒れて亡くなった。まだ祖父が生きていたら「台湾に行ってお爺ちゃんの鐘をみたよ」と、お酒を飲みながら話せるのに。
「せっかくなので、鐘の音を聞いてみたいのですが」と尋ねると、驚きの答えが返ってきた。
「以前は大晦日や行事があるときに鐘を鳴らしていたのですが、ご近所さんから苦情がきて、鐘を撞くことができなくなりました。残念なことです。鐘はきっと寂しい思いをしていることでしょう。時期を見計らって、室内に鐘をお納めする場所をつくろうと思っています」
まるで鐘を生き物のように思い遣るご住職の温かな気持ちが、心に響いた。
「鐘の形は仏の姿、鐘の音は仏の声」とも言われる。戦時中は金属類回収令が出てお寺から鐘が無くなった。人の心に安らぎをもたらす鐘が、人を殺す武器に利用されてしまった歴史がある。今回、実際に鐘の音を聞くことは叶わなかったけれど、日本と台湾を繋ぐ平和の鐘は人々の想いを受け継いで、未来永劫形を変えずに残されていくと思う。
>>>次回に続く
文・写真=岩澤侑生子
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