【日本トルコ外交関係樹立100周年】イスタンブルから福知山へ~芦田均の故郷を訪ねて|イスタンブル便り
今年8月6日、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎える。
100年前のこの日、ローザンヌ条約を日本が批准した。条約は、アンカラに樹立されていたトルコ共和国政府と日本を含む7ヵ国(英、仏、伊、日、ギリシャ、ルーマニア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人国)の間に締結され、ここに共和国の成立が国際的に認められた(条約締結は1923年7月、発効は翌1924年7月24日)。つまり、トルコは日本だけでなく他の多くの国々とも「外交関係樹立100周年」を迎えるのだ。
そして日本は、1925年3月23日、イスタンブルに大使館を開設した。日本が中東地域で初めて開設した大使館だった。今月は、その話を書こうと思う。
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ご存知の通り、トルコ共和国の首都はアンカラである。だが、600年近くオスマン帝国の首都だったイスタンブルには、「宮殿」と呼ばれるほどの豪壮な大使館が立ち並んでいた(それが、現在は「総領事館」となっている)。トルコ共和国建国直後、列強は揃って大使館をイスタンブルに置き続けていた。トルコ共和国が続くのかどうか、様子見の状態だった。そこで日本も、首都はアンカラでも最初の大使館開設はイスタンブル、という特殊事情があった。ギュムシュススユ(「銀の水」の意)の一等地にある旧日本大使館の建物は、日本政府が中東で初めて購入した国有財産である。
その建物は、建築史を専門とするわたしから見ると、西洋列強が豪奢を競った石造の「宮殿」風大使館建築と対照的だ。木造なのだ。
現在、イスタンブルのギュムシュスユ地区で、当時の様子を伝えるほぼ唯一の木造邸宅として文化財登録されている。様式としては、イスタンブルでは珍しいネオ・ロココ様式の広間がある一方、シャム・イシ、あるいはムシャラベイヤと呼ばれるイスラーム伝統の木組み透かし細工が駆使された階段室も備える。東西両方の美を折衷させる、19世紀末20世紀初頭のオスマン帝国的美意識が余すところなく反映されている。
建物は1904年に、当時のオスマン銀行頭取、ギリシャ正教徒のオスマン帝国臣民、アレクサンドル・パンギリスの邸宅として建設されたものである。以来、上流人士の社交場として知られた場所だった。帝国末期の享楽的な瀟洒を彷彿とさせる。
あるときわたしは、この大使館の建物について調べたことがある。日本とどういう経緯があったのか、気になったのだ。そして、イスタンブルで臨時代理大使だった時代の芦田均(1887−1959)が書いた手紙を見つけたのだった。宛先は、当時外務次官だった吉田茂(1878−1969)。二人とも、のちに首相となる日本近代史の重要人物の、若き時代のやりとりである。
日付は1928年10月。
芦田は、当時イスタンブルのジハンギル地区にあった大使館の建物が手狭で、困難な状況を吉田に訴えていた。茶菓のもてなしでもせいぜいが60人程度で大きな催しができないこと。車寄せがなく、自動車での招待客の対応が困難なこと。この地区では断水が頻繁にあること。
芦田はさらにかき口説く。この不便なジハンギルの大使館の契約更新の時期が迫るなか、以前大使館開設準備事務所として使っていた建物の持ち主、パンギリス・ベイ(「ベイ」はトルコ語で男性につける敬称)が、この建物を売ってもいいと言っている。車寄せもあり、便利である。ジハンギルより広く、値切りと分割払いにも応じてくれる。ジハンギルの建物の一年の借料よりも低い年賦で、7年後にはこの建物が日本政府の所有になる計算である。日本へ帰国中の上司の小幡酉吉大使(1873-1947)にも、この話は了承をとってある。
我邦にとって有利。
最適物件を見つけ値切り、分割払いの交渉もし、上司にも根回し済みと最後に付け加えたこの口説き文句を見たとき、わたしはのちに首相になった芦田均という人物の、万事に行き届いた人柄を見た気がした。日本が国際舞台で足場を築いた時代、その拠点は、こうして入手された。
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一高・東大を出て外務省に入省した芦田は、外交官として絵に描いたようなエリートコースを進む。最初の赴任地ロシアから帰国後、学生時代に見初めた寿美夫人と結婚、パリへ赴任。華やかな日々の後、イスタンブル赴任は大使館開設の年、1925年のことだった。
それにしてもタイミングがいい人だ。ロシア赴任時にロシア革命、パリではパリ講和会議、と、世界史の節目となる事件を見聞している。それに比べると、共和国がすでに成立していたトルコでの滞在は、中東初の日本大使館立ち上げという任務だったが、「閑職」と感じられたようだ。『芦田均日記』を読むと、上司の小幡大使との衝突も多く、本人にとっては不本意な日々だったらしい。それが、次の赴任国ベルギーを最後に外務省を退職、政治の世界へ転身するきっかけとなったのかは不明だが。
オスマン帝国崩壊後、新たに独立した国々に公使館・大使館の開設が検討されるなか、日本政府はイスタンブル(この時点で、名称はまだ「コンスタンチノープル」)を重点地区とみなしていた。
1926年4月、イスタンブルの日本大使館は、ルーマニア、ギリシャ、アレクサンドリア、ポートサイード(エジプト)、オデッサ(現ウクライナ)など、周辺諸国の公使・領事を集めて日本の輸出経済の方針を議論する近東貿易会議を主催した。1929年8月には日本とトルコの間の最初の産業提携として、古都ブルサに日土絹染織工場が完成・開業する。西本願寺の旧門主大谷光瑞(1876-1948)とブルサの名士メンドゥフ・ベイの合同事業だ。芦田はその落成式に 恋女房寿美夫人とともに出かけた。夫人はトルコの新聞で 「トルコで日本人女性」などと着物姿を写真入りで紹介されたりしている。
この年の芦田は、公私ともに充実している。ボスフォラス海峡の交通についての博士論文「国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位」を母校東京大学に提出し、博士号を取得した。ローザンヌ条約の問題点をまとめたもので、今年この博士論文のトルコ語版が出版される予定である。
芦田のイスタンブル滞在は、1925年から1929年のたった足掛け5年間である。その後の芦田の政治家としての膨大なキャリアからいえば、ほんのひとときのことだ。だが、今年2月にイスタンブルで行った100周年記念国際セミナー「建築と外交」に来てくれた、イスタンブル市文化事業部のオザンさんは、こう言った。
「芦田均は、歴代の世界の首相のなかでも、トルコをテーマに博士論文を書いた、おそらく唯一の人物です。日本は、そういう人物を、自分たちの首相として選んだのですね」。
トルコから見ると、そう見えるのか。はっとした。
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そんな芦田均の、故郷に行ってきた。
『芦田均記念館』というのがあるようだ。知ったのは、インターネット検索をしていた時だった。
次に日本に帰った時に訪ねてみたい。イスタンブルから、記念館に電話をかけた。出てくれたのは、芦田八郎館長。ご親戚でしょうか、と尋ねてみると、そうではないらしい。その近辺は、「芦田」姓が多いのだそうだ。
京都府福知山市。
京都駅から福知山線に乗り換え、約1時間。保津峡を通り、険しい山中を電車はゆく。福知山駅に着いてから、バスもあるが、降りてからかなり歩くというので、タクシーに乗った。約20分。
田んぼだけがある風景の真ん中に、立派な蔵のある建物がぽつん、と見えた。ここが芦田均の生家だという。
芦田が生まれた頃の建物はもうないが、住居部分に隣接して、現在の記念館の近代的な建物が建てられた。庭の一部だけが、当時のままだそうだ。
最初の展示ケースに、わたしにとって見慣れた風景が目に飛び込んできた。
あ、芦田は、イスタンブルにほんとうにいたんだな。
その瞬間、すっと腑に落ちた。手書きの文字と、紙の物質感に、なんだか輪が繋がったような気がした。
功成り名を遂げた芦田が、故郷を訪れた時の写真があった。
見ていると、芦田館長が話しはじめた。その日、元首相が故郷にやってくるというので、村は大騒ぎだった。氏神様のところで会合があり、子供達は、絶対に近づくなと厳禁されていた。
「だけどねえ、行くなと言われたら、行くものじゃないですか、子供って」。
好奇心の塊だった八郎少年は、物陰からそっと様子を垣間見るつもりだった。
と、伯父さんに見つかった。
怒られる、と思った。すると伯父が言った。八郎、お前も来い。
「それで、わたしもこの写真に収まることになったんですよ。ほら、ここに」。
見ると、大人たちに混じって一人だけ、子供の姿がある。
「 この写真に写っている人たちはみんな、死んでしまいました。考えてみれば、生きている芦田均に会ったことがあるのは、この村ではわたしだけになってしまいましたねえ」。
そのかつての八郎少年に、会えてよかった。
もうひとつ、輪が繋がったような気がした。
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イスタンブルの旧日本大使館の建物は、1929年から1937年にアンカラに移転されるまで大使館として、以後は夏期事務所として使用された。第二次世界大戦中両国の国交は一時途絶えたが、1952年再開、建物は1965年から領事館、1972年以降総領事館として機能した。2003年の同時多発テロにより、2004年総領事館が北部のレヴェント地区へ移転、建物は閉鎖された。2010年トルコにおける日本年に、文化行事のために一時開かれ、その後日本人学校として使用されたりしたが、現在は非公開。売却が迫られている。
日本・トルコ外交関係樹立100周年にあたり、両国関係の史跡でもあるこの建物の歴史的・文化的価値の再認識、有効的活用に向けての準備が望まれる。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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