向田邦子が“故郷もどき”と呼んだ街|ホンタビ! 文=川内有緒
作家の川内有緒さんが、本に動かされて旅へ出る連載「ホンタビ!」。登場人物を思うのか、著者について考えるのか、それとも誰かに会ったり、何か食べたり、遊んだり? さて、今月はどこに行こう。本を旅する、本で旅する。
目の下に広がる鹿児島の街は、見たこともない新しい街であった。
「鹿児島感傷旅行」
その人が鹿児島市に移り住んだのは、1939年(昭和14年)のことだった。高い建物もない時代で、城山の中腹に建つ家からは桜島も見えた。その人とは「赤いランドセルを背負った、蚊トンボのようなすねをした」小学生の向田邦子である。2年という短い生活だったが、向田はのちに鹿児島を「故郷もどき」と呼び、多くのエッセイに鹿児島のことを書き残している。
[今月の本]
向田和子編
『向田邦子ベスト・エッセイ』
(ちくま文庫)
1981年(昭和56年)8月、航空機事故により51歳で急逝した脚本家、エッセイスト、小説家の向田邦子。本書は向田が晩年、雑誌の企画で38年ぶりに訪ねた故郷の様子を綴った「鹿児島感傷旅行」、鹿児島時代の思い出を振り返る代表作「父の詫び状」等々から、向田邦子の末妹・向田和子さんが「家族」「旅」「食」「仕事」などのテーマ別に50篇を精選したエッセイ集。
今回私は、旧向田邸があった城山周辺、家族で通ったという海水浴場や天文館などをめぐった。向田家がいたのは80年以上も前だから、正直、当時の面影を探すのは難しいのではないか……と思っていたのだが、その時代から変わらないものをいくつも見つけることができた。
鹿児島最大の繁華街、天文館。多彩な店が軒を連ねる。向田が通った山下小学校も近い
その一つが、向田が海水浴にいくたびに家族で食べていた通称「じゃんぼ」、両棒餅である。いまでも磯浜地域では当時と同じ味の「じゃんぼ」が食べられる。甘い砂糖醤油のタレが絡んだ餅は、ふわりと柔らかく、とてもおいしかった。
向田家がよく訪ねた桐原家両棒餅店の名物「ぢゃんぼ餅」
☎ 099-247-1207
向田がよく家族で出かけたのは、天文館と山形屋である。山形屋の現在の建物は、1998年(平成10年)に修復されたものだが、向田家が通っていた初期と同様の風格あるルネサンス調のデザインで、それが嬉しかった。
大型百貨店・山形屋が建つ金生通り。通りの中央を市電が走る
当の向田自身が鹿児島を再訪したのは、40代終わりのことだ。「寺内貫太郎一家」などのホームドラマの脚本家として脂が乗った時期に、向田は乳がんを患い、「長く生きられないと判ったら鹿児島へ帰りたい」と書いている。そして鹿児島に旅し、懐かしい場所を訪ね歩き、当時の同級生と再会する。
あれも無くなっている、これも無かった――無いものねだりのわが鹿児島感傷旅行の中で、結局変らないものは、人。そして生きて火を吐く桜島であった。
「鹿児島感傷旅行」
今回の私の旅でも、確かに桜島の存在感は別格だった。特に磯浜から見る桜島は悠然と美しく、きっと向田の思い出の中の風景と同じだろうと思った。
磯浜から眺める桜島。今も昔も変わらない堂々たる存在感
憧れの存在
夕方、私は天文館のカフェに入り、『向田邦子ベスト・エッセイ』を開いた。久しぶりに読んだせいか、胸がいっぱいになる。ああ、「ごはん」と「字のない葉書」は傑作だ、そう「思い出トランプ」も面白かった……と、2時間ほど過ぎた頃だろうか。奇妙な感覚に襲われた。急に21歳の頃の自分に戻ったような感じがしたのだ。それは向田邦子と出会い、その鮮やかな文章や生き様に心を奪われていた頃である。
――まざまざと思い出した。向田邦子は、私の憧れそのものだったことを。中でも、「手袋をさがす」というエッセイは大人の世界に足を踏み入れようとする自分にとっての羅針盤となった。エッセイの中で向田は、気に入った手袋が見つからず、寒さを我慢しながら好きな手袋を探し続けたことを描いている。そこから話をすすめ、結婚せずに生きてきたことを前向きに受け止め、「このままゆこう」と決める。
今、ここで妥協をして、手頃な手袋で我慢をしたところで、(中略)それは自分自身への安っぽい迎合の芝居に過ぎません。(中略)いえ、かえって、不満をかくしていかにも楽しそうに振舞っているようにみせかけるなど、二重三重の嘘をつくことになると思いました。
まだ自分らしい生き方など見当もつかない私には、大いに痺れた。
人はこんな風に自分に正直に生きていいんだ――。
あれから30年。私は何度も転職をしながら、文章を書いて暮らす道を選んだ。私も自分に合う「手袋」をずっと探してきたのかもしれない。
テイクアウトしたさつま揚げを味わう川内さん
幸せな記憶
翌日は、向田邦子ファンの聖地、かごしま近代文学館を訪ねた。
「毎年向田さんをテーマにした企画展をしています。ここには約1万2000点の向田さん関連の所蔵品があります」と学芸員の井上育子さんは語る。
ドラマの台本や手書きの生原稿(噂通り読みにくい字!)、服や写真などが展示され、さらには向田が暮らしたマンションの部屋が再現されていてとても楽しい。「わあ、向田さんは大きな革のソファに座っていたのですね」とミーハー根性丸出しで写真を何枚も撮った。
生原稿や愛用品などが展示されている「かごしま近代文学館」の常設展示「向田邦子の世界」。同館では周年や時季によって多彩な企画展を開催しており、彼女の魅力を体感できる ☎099-226-7771
https://www.k-kb.or.jp/kinmeru/
さらにドラマ「寺内貫太郎一家*」の一場面も見られた。モニターの中では、大家族が食卓を囲み、しじみ汁について延々と語っている。家族、友情、愛、そして食べることを描き続けた向田らしい一幕だ。こんなふうに向田家も鹿児島で食卓を囲んでいたのだろうか。
* 向田邦子[1929-81]は記者などを経て脚本の世界に進み、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」など人気作品を数多く手がけた。その作品や生き方は世代を超えていまも愛されている
「鹿児島での暮らしは、戦争が始まる前で、向田さんの家族が全員揃っていた貴重な時代です。初めての土地での楽しく安定した暮らしで、幸せな記憶が残っていたのではないでしょうか」 その井上さんの言葉を聞いて、私はなぜ向田が鹿児島を「故郷もどき」と呼んだのかがようやく分かった気がした。
向田の居住跡地。2003年に町内会の有志によって石碑が建てられた。向田ファンの穴場的な観光スポット
続けて展示を見ていると、あるパネルの言葉に目が留まった。
夢は見るものだなと、五十を過ぎた今、思っている。叶わぬ夢も多いが、叶う夢もあるのである。
長編小説『あ・うん』のあとがきに出てくる言葉である。
『あ・うん』出版の前年、向田は「かわうそ」を含む3つの短編小説で直木賞を受賞した。まだ文芸誌に連載中のもので、異例の受賞となった。だから、ともすると向田が「叶う夢」と呼んだのは直木賞のことのようにもとれるが、実は敬愛する美術家の中川一政に『あ・うん』の題字を書いてもらうことだったと井上さんは言う。向田は、こんな風に小さな夢を積み重ねながら、軽やかな足取りで高みまで登った人なのだと感じた。
いま49歳の私には、50代で「叶う夢もある」という言葉はストレートに響く。まだまだ夢を見続けていい、と励ましてくれているようだった。
向田は、直木賞を受賞した翌年の1981年(昭和56年)、台湾を旅行中に航空機事故に遭い、この世を去った。享年51。疾風のように駆け抜けた人生。しかし、向田作品は忘れられるどころか、いまも愛され続け、2020年に出版された『向田邦子ベスト・エッセイ』は大きな反響を呼んでいる。
鹿児島で再会した向田邦子。その人は変わらず憧れの人のままだった。
文=川内有緒 写真=佐藤佳穂
川内有緒(かわうち ありお)
ノンフィクション作家。米国企業、パリの国連機関などに勤務後、フリーの作家に。『バウルを探して』(幻冬舎)、『目の見えない白鳥さんとアートを見に行く』(集英社インターナショナル)など著書多数。
出典:ひととき2022年2月号
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