カオスな神岡!東洋一の鉱山が造り出した街|飛騨さんぽ
これまで飛騨の大自然や伝統ある文化を紹介してきたが、飛騨市にはまたひと味違った魅力のあふれる街がある。それが「神岡町」だ。
東洋一の鉱山とも謳われた神岡鉱山を有するエリアで、明治から昭和にかけて繁栄した街の様子がいまも色濃く残っている。
今回は、歴史の風情と時代の最先端が入り交じるカオスな街・神岡の魅力をご紹介したい。
鉱山とともに繁栄してきた町
飛騨はもともと、山国で米があまり獲れなかったため、平安時代には「下下の国」と言われるほど貧しい地域とされていた。なかでも神岡町エリアは飛騨山脈とその支脈に囲まれ、平地も少なく農地も限られていた。現在の市街地も、乗鞍岳に源を発する神通川水系高原川沿いの河岸段丘の上に発達している。
神岡町は昭和25年(1945年)に一町二村が合併して出来た町で、当時の人口は24,000人。県下第一の人口を誇る町として誕生した。そして人口の約半数が、この市街地を中心とする船津地区に密集していた。地元の人によると、最盛期は映画館が3〜4軒あったという。(ちなみにいまの飛騨市には映画館がひとつもない。映画を観るには隣の富山県まで足をのばす必要がある)
神岡にこれほどの街ができあがったのはもちろん、東洋一と謳われた「神岡鉱山」の存在があったからだ。人口がピークを迎えた昭和35年、その約半数が鉱山関係者だったと言われている。
基盤産業として「鉱業」が発達し街が繁栄していったのは、明治7年(1874)に三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を取得し、近代的な鉱山経営を開始したことによるものだが、鉱山としての神岡の歴史はもっと古くに遡ることができる。
たとえば、奈良時代の養老年間(720年頃)には、この地より産出された黄金が朝廷に献じられたとの言い伝えが残っており、鎌倉時代や戦国時代にも鉱物が採掘されていたとの記録がある。長い歴史においても、鉱山は神岡にとって大切な資源のひとつだったことが窺える。
現在は鉱山の跡地を利用し、素粒子・宇宙の謎の解明を目指す実験装置スーパーカミオカンデ(東京大学宇宙線研究所が運用)が設置され、最先端研究の拠点にもなっている。ちなみにスーパーカミオカンデは、小柴昌俊氏(東京大学特別栄誉教授)、梶田隆章氏(東京大学教授)のノーベル物理学賞受賞にも貢献している。
ディープでカオス!街すべてが観光スポット
神岡の街を歩いてまず目につくのが「神岡城」だ。その建造年は意外に新しく昭和45年(1970)、戦国時代に江馬氏が城館を築いた跡地に建てられた。内部には、鎧、刃剣、馬具などの展示があり、最上階からは、戦国時代と同じ視点で町や街道を眺めることができる。
街すべてが観光スポットと言えるくらい、神岡の街は面白い。一緒に散策した旦那は、「カオスなアジアの街を歩いているときのワクワクする感じに近い」という。
ほかにも、レトロな看板が残る商店街や、全国的にも珍しい共同水屋など、紹介したい場所は尽きない。ぶらりと街を歩いてみるのも楽しいが、神岡のディープにぐっとのめり込みたければ、街歩きガイドと一緒に巡るのがおすすめだ。今回、私もよりディープな神岡を味わうためガイドを依頼した。
当時の姿がそのまま残る遊郭建築
ガイドの方と一緒でなければ巡ることが許されないとっておきのスポットがある。それが遊郭建築の「深山邸」だ。
明治40年(1907)、岐阜県の三大遊郭のひとつに数えられる『船津花園遊郭』が神岡町に誕生した。鉱山がもたらす街の繁栄とともに、明治、大正、昭和にかけて発展。11軒もの遊郭が軒を連ねたこの一角は、一大不夜城を思わせるほどの賑わいを見せていたという。
今回ご紹介する深山邸は、いまも当時のままの姿を残している。
遊女が普段生活していた部屋には窓がなく、3畳ほどの広さ。「ここに2人1部屋で暮らしていたんだよ」と太田さん。
華やかさの裏にある、遊女たちの厳しく悲しい境遇が突きつけられる。戦後の日本が歩んだ発展の影に埋もれた貴重な歴史を知る場と言えよう。
今回は市街地を中心に紹介したが、神岡には「日本の里100選」に選ばれた天空の里・山之村や深洞湿原など自然豊かな場所もある。毎年7月24日に行われる聖徳太子ゆかりのお祭り「常蓮寺太子踊り」は300年以上の伝統を誇る。別の機会にまた、神岡町の尽きせぬ魅力を掘り下げてみたい。
文・写真=浅岡里優
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