“とり” 鳥が都会の生活から消えた|中西進『日本人の忘れもの』
あわれな空のツル、地上のネズミ
今から1300年ほど前、いまの奈良県明日香村の風景をほめた歌に、「空にはツルが飛び、川岸ではカエルが鳴いている」という一首がある。
ツルは千年、カメは万年というようにツルは長生きの鳥だから、当時おめでたいものとして尊重された。カエルも冬姿を消すかと思うと春また姿を現す。くり返しくり返し生きつづけるから、これまた不思議な生命力をもつと考えられた。
こうした動物たちがいるから、明日香はすばらしいところだ、というわけである。
元来、中国ではユートピアにツルとカメがいると考えられた。そのなごりが、ついこの間まで庭の置き物に登場した。ツルやカメが置かれている庭、あるいはその形をした石を置いたり、植え込みをツルやカメの形にした庭を知っている人も多いだろう。
ところが、いまはどうだろう。ツルは江戸時代、大名が鷹狩りで大量に捕らえて食べてしまったから、飛来が激減した。
カメもウミガメが乱獲され、一方夏休みの子ども用にゼニガメがデパートに登場するにすぎなくなった。
カエルだって、最初にあげたカエルはカジカのこととされているが、カジカの声も姿も、ふつうの社会人はだれも知らない。
さて、それと引きかえに、皮肉なことに今や都会の空に見うけるものは、クレーンである。とくにバブルのころはあちらにもこちらにも、にょきにょきとクレーンが首をもたげ、大空とはおよそ異質な黄色い化け物のような姿をさらしていた。
まさにこれが、あのツルの現代版なのだ。クレーンとはツルのことだから。
一方、カメもカエルもいなくなった地上ではどうか。今や都会の人間は陽もささない部屋の中で、ひねもすコンピュータに向かって、瞳を凝らして過ごす。相手は人間ではない。声も出さないし、こちらも声を出さない。
こちらの意思は指先に握られたマウスによって画面に表示される。いつのまにか、画面の、ちょろちょろとした矢印が、マウスそのもののように思えてくる。
カメやカエルの代わりに、地上で人間がもっとも大切にしているのは、何とネズミである。
かつてのツルとカメは、今やクレーンとマウスになった。
大空を美しく翔けるツル。悠然と大海を泳ぎまわるカメ。カメはアメリカまで回遊するという。
それに代わったクレーンやマウスには、何の自然の背景もない。シベリアへの往復も、龍宮城への往復の夢もない。
季節を作ってきた鳥
ツルばかりではない。この列島に飛来する渡り鳥は数が多い。いつ何の鳥が来、また帰るか、それらへの日本人の知識は、ずいぶん古くからあった。
広く日本の国内での移動も含めていうと、まず春になるとウグイスが山から里に降りてきた。ウグイスが鳴かないと春になったことがわからない、という歌もある。これは千年ほど前の歌だが、早い話、私なども早春のころ家の庭ではささ鳴きをするウグイスの声を聞いた。十分に声がつづかない。断続的に鳴くだけである。
それがやがて、りっぱに「ケキョケキョ、ホーホケキョ」となると、ぐんとまわりの春色も濃くなっている。ウグイスを「春告げ鳥」というのも、よくわかる。
またホトトギスがくると夏である。むかしは今のカッコウもホトトギスといった。カッコウの方がホトトギスより、一般にはなじみ深いのではないか。私はカッコウというと、夏休みの小学校の体操を思い出す。小学校時代、夏休みは朝早く学校へ行ってラジオ体操をした。終わるとカードにハンを押してもらう。日付の欄があるカードは、母親に紐をつけてもらって、首にぶらさげて通った。
そんな行き帰り、いつもカッコウが鳴いていた。だからホトトギスは夏が来たことを教える鳥だった。古い書物にホトトギスを「時鳥」と書いてあるのは、よく理解できる。
また夏は、ツバメが来る季節で、ツバメというと雨の風景をよく思い出す。もちろん今まったくいないわけではないが、軒先に巣がある風景は、少なくなった。
子どものころの特急は「つばめ」が一番速かった。いまは「ひかり」や「のぞみ」。具体的な風物から抽象的な物質や精神に代わったところに、時代の変化がもっともよく現れている。どうも私は「ツバメのような早業に、鬼の弁慶あやまった」という方がわかりやすくて、「光のような早業」では弁慶も目がくらむだけで、あやまらないのではないかという気がする。
ヒグラシゼミが鳴き始めると、そろそろ南へ帰らなければならないと、ツバメは心が急きたてられる。そう歌ったのは近代の詩人・三好達治だったが、ツバメに代わって秋にやってくるのが、ガン(雁)であった。むかしはカリといった。
しかし東京で生まれ東京で育った私は北海道の上空でしか、ガンを見たことがない。1950年ごろの宮柊二さんの短歌に、東京のビル街の上を飛ぶガンを見たものがあって、私は幻のようにその姿を恋したものであった。
また昔話に「雁とりじじい」という話がある。ガンに灰の目つぶしを食らわせて捕らえるのだという。これまた、ウソのような本当のような、と思いながら少年時代をすごしたが、アラスカではガンが渡るようになると、地面に寝ころんだ猟師が空のガンに銃砲をあびせるのだという。落ちてくるガンで、猟師は血まみれになる。これは團伊久磨さんの随筆で読んだ。
つまりアラスカの猟師も古い日本の猟師も、広く人びとがカレンダー代わりに使っていたガンの飛来に応じて、狩をしていたのである。
そのガンもまたシベリアに戻っていく。8世紀の歌人・大伴家持は「ツバメが来る時期になったと、カリが故郷を思い出している」という歌を作る。まるで鳥どうしが季節の情報を交換しあっているようだ。
中村草田男という俳人が、やはり東京のガンを詠んでいる。「大学生 おほかた貧し 雁帰る」と。帰雁が故郷を思慕させる文学伝統を家持から受けつぐものだ。貧しさは、故郷への思慕と一体となる。
冬の渡り鳥といえば、もう一つ、カモがいる。こちらは今でも、どこどこの池に何十羽飛来したなどと、新聞に写真入りで載る。夜、霜で全身をおおわれたカモを見ると、日本列島の上に確実におとずれている冬を連想し、大きな宇宙の生命にふれる思いがする。
やはり日本の季節を作ってきたものの一つに、渡り鳥たちがいたことを思い出さざるを得ない。ところがその渡り鳥も少なくなり、都会からはさらに姿が遠ざかると、渡り鳥が歌った季節の風物詩は、もうすっかり日本人の生活から消えていくことになる。
鳥のことばが聞こえなくなった
そもそも鳥の名前は鳴き声によるものが多い。スス(昔の発音ではチュチュ)と鳴くメ(群れ)だからスズメ、コケコッコーと鳴くからカケ(鶏のこと)、カラカラと鳴くからカラス。スは愛称である。鳴き声での区別法がいちばん確かだったであろう。
そうなると鳥にとって大切なものも鳴き声で、むかしの人は鳥の鳴き声に神経を使った。
はたしてこの鳴き声は吉か凶か。何といって鳴いているのか。とにかく人類の占いの中で、もっとも古いものの一つに「鳥占い」があるのも、鳥の鳴き声への関心の高さをもの語っている。
その、おもしろい証拠がある。恋人が来てくれるか来ないか、やきもきしている女性に向かってカラスは「コロク、コロク」と鳴いたらしい。「子ろ来」と聞ける。子ろ、つまり男性が来るというのだ。
さては来てくれるかもしれないと喜んでいると、さっぱり来てくれないといって怒る。
これもふざけているが、そもそも鳴き声によって「鳥占い」をしたことを示すものだ。
とくにカラスはかしこい。自分をいじめた子を覚えていて、あとで攻撃してくるというし、飼主のサラリーマンを、駅まで迎えにいって、肩にとまって帰ってくるという話も聞いた。九官鳥もカラスの仲間だから、いかにもありそうな話だ。
遠いむかし、神武天皇は吉野の山の中で道に迷い、ヤタガラスに導かれて無事大和へ出たという。これも「鳥占い」をしたから無事に危機を脱したのである。
こうなると、ウグイスが「法、法華経」と鳴くという意味も、脈絡がつくであろう。ウグイスはそう鳴いて人を教えさとす、という鳴き声占いから話は発していたことがわかる。
ブッポーソーと鳴く声は、そのまま鳥の名前になった。仏・法・僧というありがたいことばを聞きとめられた人は、仏の教えに導かれて浄土へいくことができる。
つまりは鳥の鳴き声は、けっしてつまらない語呂合わせではない。何しろ鳥は大空の彼方まで飛びかけり、異界に達する。死者の魂と考えられることもあった。そんな超越的存在が、有限の能力しかない人間に、この世以外のこと、過去、未来のことを教えてくれるのは当然だろう。
しかし現代人は、鳥の鳴き声に耳を澄まして啓示を聞くなどとは、つゆ考えていない。いや、鳥そのものが、生活からだんだん離れていってしまった。
いまや人間が鳥とつき合うのは、カラスとの生ゴミ戦争や、穀物を荒らすスズメとの抗争だけになっただろうか。
たしかに、生ゴミの出し方に手抜きをする人間を的確に見抜いて、人間の愚かしさをあざ笑うようにポリ袋を突つき、ゴミを散乱させて悪臭を漂わせるカラスは憎らしい。追っても追ってもやってくるスズメも困る。果樹園主は夜明けに実をハトに襲われる。だから鉄砲の擬音が出る装置を設ける。すると住民から、目がさめると苦情が来る。
解決すべき問題はたくさんあるが、一方、鳥の鳴き声に耳をすまし、その告げてくることばを生きる力に変えてみることも、大事ではないか。
じつはフィンランドの現代作曲家、E・ラウタバーラ(1928~)は「鳥たちとオーケストラの協奏曲」と副題をつけた「極北の定旋律」(1972)の冒頭に、テープによって録音したカモメの鳴き声を加えている。また白鳥の渡りも鳴き声をまじえながら旋律化する。
ラウタバーラは、極北の地に舞うカモメや白鳥の鳴き声を通して、白夜の天地が秘めた奥深い自然の声を聞きとめ、それを魂を揺するような旋律に再現したのである。
いま私はこの曲のCDを聞きながらこれを書いているが、さらにラウタバーラは「喜びの島」(1995)という曲を書いた。この曲については、すぐれたエッセイを岡田節人さんが書いておられる。
バルト海の孤島でラウタバーラは、死期の近づいたカモメが一羽群れを離れて白夜の海岸をさまよい、翌朝死体となって横たわっているのを発見した。そこでこの曲を書いたという。
岡田さんは、この生物の死と大自然とのかかわりをモチーフとして、霊的にして至福に満ちた音楽ができたことを強調する。曲名も「至福の島」と訳すべきだという。
日本人も、自然の生命を告げるものとして、鳥の声を聞きとめなければならないだろう。
文=中西 進
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