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なぜ宇佐神宮は日本書紀に登場しないのか?――記紀が語らない有名神社の正体(1)

文・ウェッジ書籍編集室 

 八幡(はちまん)神社といえば、神社の中でも全国に数が多いことから、地域で身近に感じている人も多いのではないでしょうか。その八幡信仰の本源とも呼べる場所が、大分県宇佐(うさ)市に鎮座する宇佐神宮(うさじんぐう)です。
 改正新型インフルエンザ等対策特別措置法が施行された直後に、安倍昭恵総理夫人が大分旅行の際に参拝したことで宇佐神宮が注目されましたが、日本史の授業でも宇佐八幡宮神託事件の舞台として習った記憶のある方も多いでしょう。
 今年(令和2年)は『日本書記』の編纂1300年を迎えましたが、全国的に有名でありながら、記述がまったくない神社がいくつか存在します。実は宇佐神宮がそのひとつなのです。
 ここでは『日本書紀に秘められた古社寺の謎』(神道学者・三橋健編、ウェッジ刊)より、日本書記が記述しなかった宇佐神宮の謎について、本書のなかから見ていきます。

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全国八幡神社の総本宮である宇佐神宮

 現在、全国には神社が約8万社あります。そのうちおよそ1割が八幡神を祀(まつ)る八幡神社(八幡宮)であり、神社を祭神で系列化すると八幡系が全国でもっとも多くなっています。

 そんな全国の八幡神社(八幡宮)の総本宮であり、その本源に位置づけられているのが、大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(宇佐八幡宮、宇佐宮とも称される)です。現在は八幡神を主祭神として、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)のあわせて三座を祀り、さらに八幡神を応神天皇(おうじんてんのう)の神霊、比売神を宗像(むなかた)三女神(市杵島姫神/いちきしまひめのかみ 、湍津姫神/たぎつひめのかみ 、田心姫神/たごりひめのかみ)のこととしています。

画像①神功皇后

神功皇后は第14代・仲哀天皇の皇后であり、第15代・応神天皇の実母。応神天皇が即位するまで摂政として約70年間君臨したとされる(歌川国芳作『名高百勇伝』)

 宇佐神宮の八幡神は、奈良・平安時代には天皇家をはじめ、貴族、武家などから篤い崇敬をうけるようになり、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)などにみられるように、全国各地に八幡神は勧請(かんじょう)され、八幡神社・八幡宮がたてられ、庶民にまでその信仰は浸透していきました。

画像②宇佐神宮鳥居

宇佐神宮は宇佐八幡宮とも呼ばれ、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件の舞台としても知られる

 このように八幡神は国家神的な扱いを受け、八幡神社は日本人にもっともなじみ深い神社といえるにもかかわらず、八幡信仰に関しては謎が数多くあります。たとえば、宇佐神宮と八幡神の起源、ハチマンという神名のルーツ、なぜ八幡神と応神天皇の霊が同一視されるのか、といった問題をめぐってはさまざまな説が出されてはいますが、なかなか定説といえるものは見当たりません。

 こうした謎にさらに大きく輪をかけて、『日本書紀』も『古事記』も八幡神や宇佐神宮のことにはいっさい言及していないのです。むしろ非常に古い由来をもっているはずの八幡について記紀が沈黙しているという事実こそが、八幡をめぐるミステリーの源泉なのかもしれません。

八幡信仰が広まるのは奈良時代の大仏造立から

 『日本書紀』を実際にみてみると、たとえば「欽明天皇紀」には宇佐や八幡神に関する記述がありません。宇佐神宮の草創縁起を記す「大神清麿解状(おおがのきよまろげじょう)」によれば、欽明天皇29年に八幡神は示現(じげん)したことになっていますが、『日本書紀』にはそもそも欽明天皇29年条が存在しません。『日本書紀』のソースとなった史資料にはこの年に関する記録がなかったか、なにかあったとしても、編述者がことさらに書き残すべき出来事ではないと判断したのかもしれません。

 八幡信仰は神功皇后や応神天皇とも結びついて発展したわけですが、「神功皇后紀」や「応神天皇紀」をみても、八幡や宇佐に関わる記述はまったく登場しません。もちろん『古事記』にも八幡神への言及はみられません。

 八幡神(宇佐神宮)の史書上における初見は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平(てんぴょう)9年(737)4月1日条にまで下ります。
「使(つかひ)を伊勢神宮、大神社(おおみわのやしろ) 、筑紫(つくし)の住吉(すみよし) 、八幡二社及び香椎宮(かしいのみや)に遣(つかは)して幣(みてぐら)を奉る。以て新羅の無礼(むらい)の状(さま)を告ぐ」

 ここにみえる「八幡」というのは宇佐神宮のことと考えられており、「二社」とあるのは当時、宇佐神宮に八幡神とその比売神の二柱が祀られていたからだろうとされています(平安時代からはこれに神功皇后が加わって、三柱・三座になった)。この時期、日本は朝鮮半島の新羅と緊迫化した関係にありましたが、その沈静化を願って距離的に新羅にも近い宇佐神宮に幣帛(へいはく)が奉られたと考えられます。

画像③御許山山頂の大元神社(宇佐神宮奥宮)

御許山(おもとさん)山頂にある大元(おおもと)神社。宇佐神宮の奥宮にあたる。御許山は宗像三女神が君臨した神山とされている

 宇佐の八幡信仰が中央・朝廷に大きく進出するのは、この後の東大寺大仏造立からになります。聖武天皇(しょうむてんのう)の大仏造立事業が難航したとき、八幡神が大仏建立に協力することを誓う託宣を発したといい、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749)に大仏鋳造が成ると、託宣にしたがって宇佐神宮の巫女(みこ)が上京して大仏を拝礼(はいれい)し、東大寺大仏の守護神として宇佐八幡神が平城京の地に勧請されました(現在の手向山八幡宮)。これを機に八幡神は朝廷から厚遇されるようになり、また仏教ともよく習合して「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」と号されるようになったのです。

「八幡神=応神天皇」となるのは8世紀後半以降?

 結局、宇佐神宮や八幡神が記紀に登場しないのは、記紀の編纂が行われていた7世紀末から8世紀初頭の時点ではそれが九州の一部地域以外にはまだほとんど知られておらず、八幡信仰が黎明期にあったからだと考えるのが、まずは合理的といえるでしょう。また、八幡を奉斎する大神(おおみわ)、辛島(からしま)、宇佐といった氏族が、当時の中央政界と強いつながりを有していなかったことも考えられます。

 さらに記紀に八幡神が登場しないという事実は、八幡神が応神天皇の神霊と明確に同一視されるようになったのが、記紀成立以後のことであることを傍証していると考えられます。なぜなら、もし早くから八幡神=応神天皇とする信仰があったのなら、天皇に関する伝説・伝承を重んじる記紀がそれを見逃すはずもなく、なんらかのかたちでそのことに言及しないはずはないからです。

 おそらく8世紀後半以降、新羅との関係が緊迫化するなかで、新羅親征伝説をもつ神功皇后と、皇后が九州で生んだ応神天皇の伝説が改めてクローズアップされた可能性があります。そして、九州にもとからあった神功・応神への信仰が、同じ九州を震源として急速に勢いを得つつあった八幡神への信仰と習合したと考えられます。おおよそはこのような理由から、『日本書紀』は、日本で最も人気を集める神社の由来を書き漏らしてしまったと考えられるのではないでしょうか。

画像④応神天皇

応神天皇の実在性は定かでないが、八幡神として神格化されるようになった(『集古十種』「応神帝御影」)

――宇佐神宮については、『日本書紀に秘められた古社寺の謎』(ウェッジ刊)の中で詳しく触れています。本書の中では、このほか伊勢神宮や出雲大社をはじめ、今年で編纂1300年を迎えた『日本書紀』の舞台となった30の古社寺を謎解き風に紹介。ただいまネット書店で予約受付中です。


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