【くまもとのあか牛】阿蘇の大草原で育った希少な和牛を食す|文=向笠千恵子
フードジャーナリストの向笠千恵子さんが、日本の食材を志ある生産者のもとへ訪ねる「おいしい風土記」。2013年から5年間、ひととき本誌の連載として人気を博した企画の特別篇です。今回は肥後熊本が誇る“あか牛”の美味に迫ります――。(ひととき2021年8月号より)
熊本の産物は赤のイメージが強い。古称の「火国」とも重なる。そこでかの地では、西瓜、トマト、赤なす、毛が赤い地鶏・天草大王、あか牛など、「くまもとの赤ブランド」を売り出し中。今回の旅はこのあか牛がお目当てである。
あか牛は黒毛和種、日本短角種、無角和種と並ぶ和牛で、正式名は褐毛和種という。熊本系と高知系があり、生産量の約9割が熊本系。健康指向派に赤身肉が注目されているが、その視線の先にタウリンや必須アミノ酸などが豊富なこの牛がいる。世界農業遺産・阿蘇の景観維持にも欠かせない。
熊本の肉が勢揃い
わたしにあか牛のおいしさを教えてくれたのは山下みきさん。熊本市の目抜きの上通にある「すき焼加茂川」の女将で、地元高校から大阪の辻調理師専門学校へ進み、助手を経て、肉の名門で知られる老舗へ嫁いだ。それだけにすき焼き肉の品揃えは半端じゃない。県産の黒毛和牛と乳用牛の交雑種“味彩牛”、鶏すきには天草大王も。馬肉は刺身で出す。あか牛は人気が出る前から扱い、すき焼きにすばらしく合うことを実証してきた。
女将の山下みきさんとご子息で社長の礼央さん
女将の実家は熊本城の西南、西阿弥陀寺町にある。2階建切妻造出格子の町家は「歴史的風致形成建造物 料理谷邸(商工クラブ)」の認証板がはられ、飲食店と宿泊施設にリノベーション工事中。見守る彼女の眼が輝いている。
「料理谷」とは細川家ご下賜の姓で、殿様に仕えた料理人家系の証。西南戦争後は料理屋を営んだが5年前の熊本地震で閉店。そんなところに寺社、蔵、町家が点在するここ古町・新町界隈の再整備を市が計画し、彼女に声をかけてきた。それに応じて地域コミュニティーの場にしようと町家レストランを準備中なのだ。
古い町家を改装したカフェや雑貨店が並ぶ古町・新町エリア
実家を見学し、新旧がいい塩梅の町並みを一緒に歩くと、料理にかける情熱がひしひし伝わってきた。そのせいか晩のすき焼きはいつも以上に極上だった。
「加茂川」は西南戦争の征討総督に従って来熊した京都の料理人が創業した。このためすき焼きは鍋で調味する関西風だが、随所に加茂川スタイルが潜んでいる。
ざくは水前寺菜、蓮根、赤なすといった肥後野菜がたっぷり。醤油や糸蒟蒻は古町・新町の老舗製にこだわり、水分調整は昆布、酒、天草大王などから取っただしに牛乳を加えた特製スープで行う。豪放なのに深遠でまろやかという矛盾した美味は、辛子蓮根やだご汁といった郷土料理とも共通。武人と数寄者の両立を究めた肥後細川藩の影響だろうか。
あか牛は肩ロースが登場した。1人前150グラム。すき焼き用としては厚めで大判。素直にうれしい。黒毛の赤身が真紅なら、あか牛のそれは桃色。この日の桃色肉には白いサシまで美しく入り、あか牛肉もいろいろあると思い知らされた。そんな素振りのわたしに女将がすばやく答えてくれた。
ほどよくサシの入ったあか牛肉。精肉部門があるので、可能な限り好みに近い肉を用意してくれる
「一口に熊本のあか牛といっても農場の場所、生産者の姿勢、熟成法、部位などで品質はさまざま。最近はサシが入った肉もある。どれも希少なので大切に使い分けています」
「すき焼きには、草の香りがやさしくてサシがほどほどに入った肉が合います」
たしかに醤油と砂糖で調味するすき焼きは良質な脂がほどほどに加わってこそ、うま味がととのい、肉自体の味も深まる。
女将は鍋に脂身を塗り、肉を入れ、白砂糖をふりふり、無添加の濃口醤油ちょろり、玉ねぎ、椎茸、赤なすをどさどさ、スープをぐるっとかけ回す。もう食べ頃で、お目当てのあか牛肉は潔くて清らか。きれのよい弾力。溶き卵にくぐらせながら箸を何往復もさせてしまった。
1881年(明治14年)創業「すき焼加茂川」のあか牛のすき焼き。たっぷり入る砂糖が肉のうま味を際立たせ、甘くコクのある芳醇な味わいに。あか牛コースは1人前5,000円で、客の多くが注文する
天草大王のすき焼き。〆は卵でとじて親子丼に
巻きつけた小ネギを酢味噌で食す郷土料理“ひともじのぐるぐる”。辛子蓮根は近年人気の棒状と定番の両方を用意
そのあか牛の生産者を訪ねて熊本市東南の下益城郡美里町へ急いだ。この中山間地で明石良生さんはあか牛一筋40年。ヘルシーな肉質と放棄地活用策にうってつけとあか牛に注目し、蜜柑山跡地を開墾して芝を植えた。
明石さんの放牧地でのびのび過ごす繁殖用の母牛。地場・国産の配合飼料と自家栽培の粗飼料、稲わらを食べて育つ
母牛は妊娠期間を山で過ごし、出産間近に里の牛舎へ。仔牛は5カ月ほど母牛と暮らした後、牛舎で肥育する。「健康にしたいから、14種類の漢方材料入りの餌をあげます」と明石さん。その眼差しは、牛への深い愛情を湛えていた。
町域の8割が山地の美里町であか牛を育てる明石良生さん(左)と筆者
薪のおき火でビステッカ
赤身肉料理ならイタリア・トスカーナのキアナ牛のビステッカ*が有名だが、熊本には宮本健真さんのあか牛ビステッカがある。シェフは「アンティカ ロカンダ ミヤモト」の厨房で肉と向き合っていた。骨付肩ロースの塊で周囲に熟成発酵による灰色の黴がうっすら。
*イタリア語でステーキのこと
これは東海大学農学部阿蘇実習農場で育ち、滋賀の熟成肉の専門店「サカエヤ」で2週間ドライエイジングされた月齢28カ月の肉。阿蘇郡産山村の井信行農場産の時もある。
オーナーシェフの宮本健真さんは「震災後、料理が変わりました。素材の持つ力を生かした熊本だからこそ味わえるものをつくりたい」と話す
「阿蘇は巨大な里山で、太古から自然と人間が共存してきた場所です。そんな歴史ある環境に人々は敬意を払ってあか牛の育成に取り組んできた。その牛肉は、躍動的で奥深い味がします。そしてそれを一層うまくするため練達の職人が熟成する。こんな肉を使うのだから精一杯やらなくては申しわけない」
炉にくべてあった薪の炎がおき火に変わった。シェフは塊肉に包丁を入れ、塩をふり、炉の網へ。じゅっと鳴る。びわの葉を火に投じ、匂いをまとわせ、裏返す。再び肉がじゅじゅっ。外側が焦げ、芳しい匂いが広がる。仕上げに霧吹きで水をしゅしゅっ。
さくっと切り分け、一切れをわたしの掌へのせてくれた。かりっねっとりのアンビバレントな食感に塩味が共鳴し、草やびわ葉や炭が重奏的に香る。薔薇色の時間があっという間に過ぎ去った。
あか牛の熟成肉をシンプルなビステッカに。焼き加減はシェフにおまかせを
草よし水よし人やさし
ビステッカの肉が忘れられず、牛を育てた元東海大学農学教育実習センター技師の服部法文さんに話をうかがった。昨春から阿蘇郡南小国町の草原牛プロジェクトを指導し、あか牛放牧の持続を目指しているそうだ。あか牛は千年続き、草原の保全管理にも不可欠な存在なのに農家の高齢化、サシ信仰の呪縛などで頭数が減少中なのだ。阿蘇の草原は約2万ヘクタール、本来は草食の牛のためにあるのに、活用しないとはもったいないと、ため息が出る。
さて阿蘇外輪山*の北側へ。熊本市中心部から約45キロ。緑の草原にあか牛たちが見えてきた。カルデラ北部の阿蘇市、産山村、南小国町は放牧の中心地なのだ。
*複合火山の外側の火口縁
阿蘇外輪山と九重山麓が交わる産山村の池山牧場。草原はその維持のため3月に壮大なスケールで野焼きが行われる。青草がある間は親子の牛が放牧され、牛たちは野草や干し草を食べてのんびり暮らす
火口から噴気が上がっている。阿蘇山中の大草原・草千里ヶ浜で阿蘇ジオパークガイド・古嶋孝志さんに会った。「阿蘇は九州の水がめ」と誇らしげに始まった説明は次第に声が低くなる。植林などのせいで草原は激減し、草の再生に必要な野焼きも人手集めに一苦労なのだ。
「かつては各戸で役牛としてあか牛を飼っていました」と話すガイドの古嶋孝志さんは元消防士で野焼き作業も担う
だが百瀬葉千助の話になると古嶋さんの顔がほころんだ。百瀬は明治中期、札幌農学校卒業後、阿蘇農業学校へ赴任。阿蘇の在来牛とスイスのシンメンタール種とを交配させたあか牛の誕生に貢献し、あか牛が好むクローバーの種を蒔いて牧草を改良した功労者なのだ*。
*地元ではクローバーを百瀬草とも呼ぶ
産山村は神を山に例え、その山が生まれた村の意で、一歩入るや神さびた空気が流れていた。阿蘇山や九重山に囲まれ、名水の池山水源、山吹水源を擁する高原の里山である。
環境省の名水百選にも選ばれている池山水源。池山牧場の牛たちもこの湧き水を飲んで育つ
産山村の畜産農家の井博明さんは、九州農業試験場の指導で1976年(昭和51年)からあか牛に専念。夏は山で草を食ませ、冬は里で稲わらや牧草のロールと配合飼料を与える夏山冬里式で、赤身主体の健やかな牛を育ててきた。
井さん(右)と後継者で娘婿の俊介さん。肥育牛は牛舎で育て、草原の牧草をたっぷり与える。草を食べて育ったあか牛は余分な脂肪がつかず、病気にもなりにくいそうだ
生後約3カ月の仔牛。産山村にある井博明さんの池山牧場にて
あか牛ファンを増やすため家族で始めたのが農家レストラン「山の里」。人気は熔岩焼きのサーロインステーキ。1人前250グラム。「真にいい肉は塩味だけでうまい」という井さんの口癖に頬ばって納得。軽快でブリリアントで、もっともっとと叫びたくなる快適な味だった。
築200年の古民家を生かした「山の里」。自家生産の肉厚なあか牛ステーキが評判。井さんの妻・ゆいさんお手製の漬物も絶品
たそがれ時、上通界隈から見える熊本城。2021年4月、天守閣全体の復旧が完了した
旅人・文=向笠千恵子 写真=荒井孝治
向笠千恵子(むかさ・ちえこ)
フードジャーナリスト、食文化研究家。本物の味、伝統食品を知る第一人者。 著書に本誌連載をまとめた『ニッポンお宝食材』(小学館)など多数。和食文化を食の俳句から解き明かす『Festin de Haiku(俳句の饗宴)』(国際交流基金メキシコ日本文化センター刊)をオンラインで配信中。
すき焼 加茂川
☎096-354-2929
熊本市中央区上通町2-6
[営業時間]11:00~14:00、17:00~21:30(LO21:00)
[定休日]火曜
https://www.kamogawagenpo.co.jp/sukiyaki_kamogawa/
antica locanda MIYAMOTO
〈アンティカ ロカンダ ミヤモト〉
☎096-342-4469
熊本市中央区新屋敷1-9-15 濫觴ビル1F
[営業時間]レストラン18:00~22:00、ショップ10:00~19:00
[定休日]月曜
https://al-miyamoto.com/
民宿・農家レストラン 山の里 本店
☎0967-25-2253
阿蘇郡産山村田尻202
[営業時間]11:00~15:00(LO14:00)、18:00~22:00(LO21:00)
[定休日]水曜
http://aso-yamanosato.com/
※この記事に掲載されている情報・価格は2021年6月時点のものです。
出典:ひととき2021年8月号
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