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和辻哲郎と杉苔の庭|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った日記、随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、時代を超えて人々を惹きつける古都の魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第2回は哲学者・和辻哲郎による「京の四季」です。京都と東京の風土的条件を比較しつつ、杉苔の美しさの秘密に迫ります。

 京都には名園といわれる庭が、市内のあちらこちらにあります。庭めぐりを目的に京都へ旅する人もきっと多いことでしょう。その庭の美しさを演出しているひとつが苔。なかでも代表的な存在が杉苔(すぎごけ)です。

京都の湿気のことを考えると、私にはすぐ杉苔の姿が浮かんでくる。

 こう語るのは和辻哲郎。『古寺巡礼』『風土』などの著作で知られる、日本を代表する哲学者・倫理学者です。和辻は1889(明治22)年に現在の兵庫県姫路市に生まれ、東京帝国大学哲学科を卒業。哲学、倫理学だけでなく、思想史や文化論など幅広い分野で活躍した碩学(せきがく)です。

 和辻の業績は多岐にわたりますが、とりわけ1935年に岩波書店より上梓した『風土』は、現在でも読み継がれている名著。比較文化論の先駆的な作品とされています。風土をモンスーン、砂漠、牧場に分け、それぞれの風土と文化、思想の関連を追究した大作です。

 和辻は1925年から34年まで、京都帝国大学に助教授、教授として奉職。足掛け10年にわたり京都に在住し、市内を隅々まで逍遙したといわれています。その和辻が、戦後の1950年に発表した随想で、京都の庭における杉苔の美しさを詳細に綴っているのです。

京都で庭園を見て回った人々は必ず記憶していられることと思うが、京都では杉苔やびろうど苔が実によく育っている。ことに杉苔が目につく。あれが一面に生い育って、緑の敷物のように広がっているのは、実に美しいものである。桂離宮の玄関前とか、大徳寺真珠庵(だいとくじしんじゅあん)*1の方丈の庭とかは、その代表的なものと言ってよい。嵯峨の臨川寺(りんせんじ)*2の本堂前も、二十七、八年前からそういう苔庭になっている。

⑦御輿寄(7

桂離宮の御輿寄(おこしよせ:中心的御殿である書院の玄関)。温暖化の影響でかつてほどではないそうだが、今も杉苔に覆われる前庭。

⑩松琴亭(池越し・春)(7

日本庭園の最高峰とされる桂離宮。池越しに見えるのは松琴亭(しょうきんてい:茅葺入母屋造の茶亭)(写真提供:宮内庁京都事務所)
大徳寺真珠庵*1 京都市北区のお寺で臨済宗大徳寺派の大本山。真珠庵は通常非公開
臨川寺*2 京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院。通常は非公開。

こういう杉苔は、四季を通じて鮮やかな緑の色調を持ち続け、いつも柔らかそうにふくふくとしている。ことにその表面が、芝生のように刈りそろえて平面になっているのではなく、自然に生えそろって、おのずから微妙な起伏を持っているところに、何ともいえぬ美しさがある。従ってそういう庭は、杉苔の生えるにまかせておけば自然にできあがってくる道理である。臨川寺の庭などは、杉苔の生えている土地の土を運んで来て、それを種のようにして一面にふりまいておいただけなのである。 

 和辻も京都の庭園をほうぼう散策し、杉苔の美しさには心から感服しているようです。特に、芝生の平面的な表情とは異なる、自然な起伏の描く微妙な線を好んでいたことがうかがえます。

しかしその結果として一面に杉苔が生い育ち、むらなく生えそろうということは、その場所にちょうどよい条件がそろっていることを示している。杉苔は湿気地ではうまく成長しないが、乾いた土地でもだめである。その上、一定の風土的な条件がなくてはならぬ。京都はそういう条件を持っている。それが京都の湿度だと思う。

 なぜ京都の庭の苔は、これほど美しいのか。和辻はここで、京都には「ちょうどよい条件がそろっている」と語ります。その条件とは、京都の持つ湿度。湿度こそが、杉苔にとって、最良の風土的条件であると和辻は断言します。

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 たしかに、京都には杉苔の美しい庭が数多く見受けられます。では、他の土地では育たないのでしょうか?

私は永い間東京には杉苔はないと思っていた。東京で名高い名園などでも杉苔を見なかったからである。しかし京都から移って来て数年後に東京の西北の郊外に住むようになってみると、杉苔は東京にもざらにあることがわかった。農家の防風林で日陰になっている畑の畔などにはしばしば見かける。散歩のついでにそれを取って来て庭に植えたこともあるが、それはいつのまにか消滅してしまった。杉苔を育てるのはむずかしいと承知しているから、二度とは試みなかった。

ところが五、六年前、非常に雨の多かった年に、中庭の一部に一面に杉苔が芽を出した。秋ごろには、京都の杉苔の庭と同じように、一坪くらいの地面にふくふくと生えそろった。これはしめたと思って大切に取り扱い庭一面に広がるのを楽しみにしていたのであるが、冬になって霜柱が立つようになると、消えてなくなった。

 杉苔の好きな和辻は東京の家の庭で杉苔を育てることに挑戦しますが、うまくいきません。定着せずに消えてしまうのです。

翌年も少しは出たが、もう前の年のようには育たなかった。雨の少ない年には全然出て来ないこともある。昨年はいくらか出たが、今年は比較的多く、庭のところどころに半坪ぐらいずつ短いのが生えそろっている。竜の髯の間にもかなり萌え出ているところがある。しかし冬は必ず消えるのであるから、京都の杉苔のようになる望みは全然ない。それを見て私には、東京と京都との風土の相違がかなり具体的にわかったのである。

 名著『風土』を著わした和辻だけに、それぞれの土地の風土的な特徴には関心が高かったのでしょう。杉苔の経験を通して、東京と京都の相違を改めて実感したことが伝わってきます。

 やはり、京都の風土には独特のものがあるようです。京都の杉苔の美しさは本当に別格なのかもしれません。そして、湿度の影響は杉苔にとどまらず、他の植物にも及んでいるはずです。近いうちに、京都の庭園の杉苔や樹木をゆっくりと眺めに行きたくなりました。

出典:和辻哲郎「京の四季

文=藤岡比左志

[参考リンク]
苔名所「祇王寺」で、“苔”について聞きました♪
苔のはなし。 ~京都の苔屋さん~

桂離宮
住所:京都市西京区桂御園
*参観は要予約
問合せ:宮内庁京都事務所参観係
☎075-211-1215
http://sankan.kunaicho.go.jp/
藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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