トルコから見るシルクロード(1)伊東忠太をめぐって(タシケントとブハラ)|イスタンブル便り
サマルカンドから帰ってきたばかりである。サマルカンドは、中央アジア、ウズベキスタンにあるオアシス都市。シルクロードで栄えたことで有名だ。先月のエジプト同様、日本のさる研究機関から依頼された、研究調査出張だった。
ウズベキスタンは初めてだった。
研究のために行くというのに、誰も知り合いがいない。ゼロである。
出発する数日前、勤務先のイスタンブル工科大学の同僚、ゼイネップから尋ねられた。
「タシケントに行くの? ユクセルに会う?」ゼイネップが言う。
「え? ユクセル先生?」
ユクセル先生は、つい先学期まで、わたしの所属する建築学部建築学科長だった教授だ。去年、 ある展覧会を一緒に学内で開催した仲である。それが、出向で一年間の予定でタシケントの大学にいるのだという。
タシケントはウズベキスタンの首都である。トルコ語で「タシュ」は「石」、「ケント」は、都市、を意味する。つまり、「石の街」。
ウズベキスタンで話されているのは、ウズベク語だが、トルコ語と似ている。ある程度、意味の予想が可能だ。
連絡してみると、すぐに返事が来た。
「なんて素晴らしい偶然だ! タシケントに来るなら、せっかくだから何か小さな話でもしてくれないか」
出発は数日後である。ほんのひととき考えて、わたしは答えた。
「では、建築学科なら日本の建築の話をしましょう。明治時代に、オスマン帝国にやって来た伊東忠太の。同時にトルコの話もできますし」
芸は身を助く。そんなわけで、突然伊東忠太の講演会の話が持ち上がった。
誰も知らない国、誰も知らない街に降り立つはずだったわたしは、伊東忠太のおかげで(?)、数日後、タシケント空港で、ユクセル先生と運転手つきの車に出迎えられたのである。
大学に連れられて驚いた。
トルコ人のユクセル先生は建築学部長、他にも、工学部、コミュニケーション学部など、学部長は全員トルコ人の先生だという。トルコ人の講師の先生もいる。学長室に招き入れられ、紹介された学長もトルコ人である。
教育はトルコ語で行われ、ウズベク語もしくはロシア語の通訳が入るのだという。学生の大半は、ウズベク人だそうだ。
講演はトルコ語で、と言われていたので、トルコ語で話した。トルコ語からウズベク語に通訳され、途中からロシア語に交代した。(*1)
実は今回、もうひとつ講演の機会があった。シルクロードの別のオアシス都市、やはりウズベキスタンの中部に位置するブハラという世界遺産の街でも同様の講演をした。こちらでは英語で講演し、ウズベク語に通訳された。招待側がウズベク人の先生で、トルコ語話者ではなかったからだ。
ギリシャ建築に見られる「エンタシス(柱の胴張り)」が、シルクロードを通って日本の奈良の法隆寺の建築に伝播した、とする「法隆寺建築ギリシャ起源説」を唱えた伊東忠太。忠太は明治時代、それを証明するべく、世界旅行に出た。その忠太の話を、まさに彼が夢想したシルクロード(*2)の地でするのは、忠太の世界旅行について本を書いたわたしとしては、感慨深いものがある。
講演では、東京の築地本願寺の建築家として知られる伊東忠太が明治時代に 英語のArchitectureの翻訳として「建築」という言葉を作ったこと、「法隆寺建築ギリシャ起源説」を証明するべく、日本建築の源流を求めて世界旅行に出かけたこと、 苦労の末、ついにギリシャまでたどり着いたが、結局文明とは西洋から東洋でも、東洋から西洋でもなく、お互いの絶え間ない接触によって変化するものだと気付いた話、などをした(詳しくは、拙著をぜひご覧ください)。
「伊東忠太の話を、ちょうど120年後の今、この地でさせていただけるのは、わたしにとって、大変意義深いことです」
講演の途中で、シルクロードの説明をしながら、 そう言葉に出した。すると一人の学生さん が手を挙げた。
「その話を、美由紀先生がここにきてしてくださるのは、わたしたちにとっても、大変意義深いことです」
しばらく拍手が鳴り止まなかったのは、嬉しいサプライズだった。
* * *
ブハラでの講演後、質問は、と司会者が声をかけると、さっと手をあげた学生さんは、こう言った。
「日本では、近代的な建物がたくさん建てられていますが、伝統的な建物を、どうして建てないんですか?」
これは、トルコの学生と比べて対照的な視点である。日本と比べてもそうかもしれない。日本やトルコの大学の建築教育では、歴史でも実務でも、近代建築を重視する傾向があるように思う。
「モダンで、クール」という、日本の現代建築の、海外での一般的な受け取られ方とは、対極的な見方に、少し面食らった。
「そういう質問が出るということは、あなたは、伝統的な建築の方が、良いと思っているんですね?」
学生さんは、深く頷いた。彼の周りにいる数人も、一緒に頷いた。
わたしはこう答えた。
「それはとても良いことだと思います。伝統を大切にするということは。ウズベキスタンではそうなのですね。あなたのように考える若い人がいることを知って、嬉しく思います。そして、外国から見ているとあまりわからないかもしれませんが、日本でも、伝統的な建物も、割合は少ないですが、建てられていますよ」
* * *
講演後、ブハラの地元の人しか行かないような場所で昼食をご馳走になった。
ブハラ名物の、ポロヴ(「ピラフ」のこと)。トルコでも、「ウズベク・ピラフ」として有名だが、骨つきの牛肉、山ほどの人参やその他の野菜と一緒に大釜で炊き上げたものだ。この大釜を見たとき、大興奮した。オスマン帝国の軍隊もかくや、と彷彿としたのだった。大釜のことを、ウズベク語で「カザン」という。トルコ語でも同じなのだ。
メニューは一つだけ。じつにシンプルだ。3人で行くと3つ、4人で行くと4つ「ポロヴ」がくる。一緒にお漬物やヨーグルトソースが出てきて、カレーの福神漬けのように、時々味に変化をつけながらいただく。大変美味だ。
ブハラの人が言うには、「油と同じ分量の水と一緒に炊くので、消化が良くて健康的(これはつまり、他の地方では、水の代わりに<すべて>油で米を炊く、ということを意味する)」。だが、すみません。この昼食の後、わたしは夕食の時間になってもお腹が空きませんでした。いや、消化の問題ではなくて、分量をたくさん食べ過ぎただけかもしれないが。
* * *
ウズベキスタンは、現代の日本では人が忘れてしまったような究極のミニマリズムと、途方もない豊穣との、コントラストに溢れた国だ。厳しい自然、砂漠の砂、日干し煉瓦のモノトーンと、そのなかに宝石のように光るタイルの青。そして、木彫りや漆喰細工、手織物スザニーなどの手仕事がまだ残っていることが、とても印象的だった。
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
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