いざ鎌倉!消えた白山道をたどる|新MiUra風土記
金沢八景駅の風通しがよくなってきた。
駅前は拡幅されて、京急本線と逗子線の駅は新交通システムの金沢シーサイドラインの駅舎と立体的に結ばれて、より利便になったものだ。
周辺の再開発も進み、復元工事がつづいた駅裏にある江戸期の茅葺屋根の旧木村家住宅と金沢八景権現山公園も完成して、この四月に公開されたばかり。この山上には平潟湾からの浜風も届いていた。
横浜市最南端の金沢区はかつて六浦荘と呼ばれた。
干拓された今の地形は、かつて内海、湾と入江と川に侵食された海岸線で、場所により浦、津、瀬戸、潟、湊と称された。
ペリーが黒船で開港させた北の横浜村はやがて国際貿易港になるが、そのはるか六百年前にこの汀には対外交易の湊があったのだ。
六浦湊(津とも)は中世、鎌倉幕府の都の外港となり宋や元らとつながっていた。
北条泰時(*1)は鎌倉道としてそれまでの六浦道を拡張整備し、のちには金沢街道とも呼ばれ、それは現在も大筋は二十三号線(環状四号線)で鎌倉を結んでいる。
また六浦には五つの古道が集まり束ねた、千葉、房総半島に渡海する古東海道のハブ地でもあったのだ。
その古道で消えたのがこの白山道だった(*2)。
白山道は六浦道の以前から六浦と鎌倉をつなぐ塩の道(ソルトロード)で、たたらの道(*3)にもつながるはず。そんなローカルミステリーに誘われ歩いてみよう。
始まりは金沢文庫がある称名寺から。
シーサイドラインも楽しいが、まずは駅前の瀬戸神社と琵琶嶋神社に寄りたい。三島明神と弁財天を勧進した源頼朝と政子が創建した、名勝金沢八景の中心なのだから。
岸辺は歌川広重の浮世絵「八景図」に描かれた、江戸期来の旅館料亭が並ぶ大観光地で、閉業した「千代本」の大きな敷地に建物が残っていて昔を偲ぶことができる。
称名寺へ向かう途中の瀬戸橋を渡ると、明治憲法草創の石碑が立っている。旧料亭「東屋」では伊藤博文などが明治憲法を草案した。
称名寺(*4)は本堂の背後の三方を稜線がとり囲んでいて、京や鎌倉の都のミニチュアのようだった。水平に開いた境内は、宇治の平等院や平泉の毛越寺に似た阿字ヶ池を中心にした浄土庭園。五月には薪能も演じられ、地元民の自然の癒しと心の拠り所になっている。
洞窟を抜けると金沢文庫(*5)にでた。ちょうど称名寺の国宝の名品展が開かれていて、「声明譜」という楽譜に似た経典書に刺激された。
いつも渋い、ここならではの展覧会が催され、図書室もあり僕の密かなオアシスでもある。
称名寺から白山道をたどり、金沢文庫駅への旧道を下る。
先の八景駅もこの文庫駅もかつては瀬戸で絞られた内海だったのだ。その岸にそって今もバス道がカーブしている。
途中、小泉というバス停あり、金沢八景のひとつ『小泉夜雨』がここだった。そういえば六浦道(現二十三号線)端に「小泉又次郎誕生地碑」(*6)が立っているのは、元首相小泉純一郎氏の祖父。のちに横須賀を地盤にする小泉一族はこの地がルーツだったという。
いつの間にか道脇を川が流れている。宮川という、鎌倉市との境の山を水源にして東京湾に下る川。白山道はこの河岸に沿ってゆけば良いはずだ。
この辺りは釜利谷と呼び、やがて左右の丘が狭まると谷戸道に入り白山東光禅寺に参らせてもらう。智勇兼備の鎌倉武将、畠山重忠(1164-1205)ゆかりの臨済宗建長寺派の古刹。時が停まっているような静謐な空気のなかで、本堂天井の大龍画(月海豪澄法師作)が熱くて逞しかった。
スマホマップがあてにならないこの谷戸の道は、住宅が建込んでいて少しずつ方向感覚が狂わされる。この地特有の「やぐら」(武士や僧侶のための岩窟墳墓)に出会うと鎌倉に近づいたのだと気づかされ、異界に招かれたようだ。
白山神社があったとされる階段上の岩壁には、複数のやぐらに白山権現社や稲荷などの祠が祀られていて、ここは二十一世紀の横浜とは思えない気配が漂っている。それにしても道の名の由来の白山神社は何処だったのか?
さらに谷戸の奥には白山磨崖仏の市の案内板はあるが、摩滅したのかいまだ山腹にその彫跡がみつけられないのだ。
白山道はこの先で行き止まり、ここで関東学院大学金沢文庫キャンパスの金網に阻まれる。その北の山麓は横浜の繁華街を抜け、みなとみらいに至る大岡川の水源の氷取沢になる。
そこで一度目はあきらめたが、二度目に来た時はその脇の崖下に消え入りそうな山道を見つけた。それが白山道三号尾根道だった。
古道を登り切ると白山道奥公園で、とつぜん丘の上に白昼夢のようなスペイン風住宅街が広がった。高舟台のウッドパーク金沢文庫は東京湾も一望。それまでの谷戸道とのコントラストと違いすぎて、くらくらしてくる。そして歩く白山道はここを開発中の1986~88年に発見(*7)されたのだった。
さて途切れた白山道を再び探ろうと、朝比奈市民の森の尾根道を六浦道との合流点に向かう。
ここは武蔵国と相模国の国境だ。水戸光圀が鎌倉漫遊(*8)で眺めたという鼻欠地蔵は、今は懸崖に風化してわずかに見える像。
ここからは朝夷奈切通(*9)を越えると鎌倉だが、別の道は無いものか。白山道は以前歩いたことがある、この山嶺のたたら道とどこかで交差するはずだ。
金沢、釜利谷、氷取沢(火取沢)(*10)、鉄と火にまつわる地名も気になる。三浦半島のミステリールートをまた見つけよう。
文・写真=中川道夫
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