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イスタンブル雪見散歩と昔ながらの味

この連載イスタンブル便りでは、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、突然の大雪に見舞われたイスタンブルで求めた昔ながらの味について。

 イスタンブルに雪が降る、というと、驚かれることが多い。

 昔流行った歌謡曲のせいか、はたまた「アラビアン・ナイト」と「トルコ」が混同されているせいか、定かではないが、トルコに砂漠があると思っている人は多い。

 しかし緯度からすれば、トルコは日本の東北地方と同じくらいなのだ。

 改めていうが、トルコに砂漠はない。そして、雪が降る。それも、大雪が。

 1月末、イスタンブルは雪で大騒ぎだった。

 毎年雪に閉ざされる東部アナトリアなどと違い、そもそもイスタンブルの人々は雪に慣れていない。かくいうわたしも、九州育ちだが。

 帰宅困難者続出、交通事故多発、官公庁株式市場は休止、空港も閉鎖、大学も期末試験延期となった。ニュースでは政治家の雪対策の不手際や 、ふだんの道で吹雪で遭難しかけたなどという話が報じられ、翌日は自家用車の使用禁止令まで出た。

 その夜10時ごろ、突然思い立った。

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 雪景色は、さぞ美しいに違いない。

「決めた。明日旧市街に行く 」。

「えええ〜? 気でも違ったの? どうやって?」

 パオロ騎士 は、誘ってもないのに、自分も行くのが当然だと思っている。

「朝の船で。絶対綺麗でしょう?」

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 車に乗れなくても、イスタンブルには船という手段がある。ボスフォラス海峡が凍らない限り、船は旧市街まで連れて行ってくれる(記録によれば本当に凍ったことがあって、一度ぜひ見てみたいと思っているのだが)。

 翌朝、8時5分。まだ暗いなか、船に乗る。思ったほど寒くない。

 公務員はお休みだし、船は人もまばらである。

 アジア側のクズグンジュックからいくつか寄港し、旧市街の船着場、エミノニュまで約25分の旅だ。

 船を降りて、シルケジ駅まで歩く。

 イスタンブルのターミナル駅、有名な「オリエント急行」の発着駅である。建造は1889年、建築家はドイツ人のヤスムント。オリエンタルな雰囲気の漂う建物だが、オスマン建築の古典様式ではない。じつは、 色々な時代・地方のイスラームの建築要素の寄せ集めだ。それが当時のヨーロッパの最新トレンドだった。

「オリエント急行」でヨーロッパからイスタンブルに到着する人たちの異国情緒を演出したのは、実はオスマン帝国人にとっても目新しいものだった、というわけだ。

 うっかり滑りそうになった。道が凍っている。

 シルケジ駅の、この辺り。

 しかし、ない。

 目当てにしていた老舗食堂、創業1897年の「コンヤル(「コンヤの人」の意。コンヤは中央アナトリアの古都)が、見つからない。次の角まで歩き、見過ごしたと思って、戻りは一軒一軒確認した。やはりない。

 船でチャイにポアチャ(朝食に定番のヨーグルト入りの塩味のパン)は我慢して、「コンヤル」のポアチャを楽しみにしていたのに、なんということだ。

 トプカプ宮殿に入っているレストランは正統派トルコ料理の伝統を守る高級店だが、もともとの本店であるシルケジの店は、創業時の庶民的な「ロカンタ(食堂)」形式で、朝ごはんも気軽に食べられた(と、過去形で書くのが、悲しい)。

 留学してすぐの頃、同級生のイスタンブルっ子、エルデンが、自分のおじいちゃん(つまり、オスマン帝国時代だ)の話をしてくれたのを、今もよく覚えている。バルカン半島出身だった彼のおじいさんは、若い頃試験を受けに初めてイスタンブルに来た時、この「コンヤル」で、「チキン入りピラフ」を食べた。あまりにも美味しかったので三人前平らげたのだという。

 それ以来、「コンヤル」の前を通ると、エルデンのおじいさんのチキン入りピラフのことを、ふと思い出す。

 老舗食堂というものは、その存在自体が文化遺産だと思っている。

 食文化を伝えるだけでなく、その場所と分かち難く結びつき、人々に愛され、記憶に残る意味で、歴史遺産でもある。「コンヤル」は、シルケジ(「酢屋」の意)という鉄道駅、そばに問屋街タフタカレ(「木の城」の意)を控えるこの場所と一緒に思い出される遺産だ。

「コロナに負けた」

 あとで調べてみて、新聞記事を見つけた。去年の夏、わたしたちがイタリアにいた時のことらしい。時代の流れとはいえ、切ないことだ。ちなみに、エリザベス女王から各国首脳、映画スターまで、世界のセレブリティが舌鼓を打ったトプカプ宮殿のレストランは、健在である。

 気を取り直して雪道を歩く。

 しかし朝ごはんはどこで食べればいいのだろう。心は「コンヤル」モードになっていたので、駅前の商業主義むき出しのチェーン店にすぐに行く気にもなれなかった。

 緩やかに蛇行するのはディヴァン・ヨル(「御前会議の道」の意)、トプカプ宮殿に向かう道である。その道の突き当たりから、トプカプ宮殿の城壁が始まる。

「ギュルハーネ(「薔薇館」の意)公園のカフェがあるじゃない?」

 名案が浮かんだ。

 現在は別になっているが、ギュルハーネ公園は、 本来トプカプ宮殿の敷地である。薔薇館、獅子館、鳥館、などが点在し、中庭にも鹿が放牧されていたという。ここはオスマン帝国近代化の出発点でもある。1839年、このギュルハーネで読み上げられた憲章にその名を留めている。

 公園を奥まで行くと、15世紀の逸品チニリ・キョシュク(タイルの東屋)の建物を、裏側から眺めることができる。 城壁の中にさらに堅固な壁が築かれ、高台の上に建てられた建物のタイルの鮮やかさは、厳しく吹き付けた雪の跡とあいまって凄烈である。

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 しかし寒さが沁み入って来た。

 空腹に弱いローマ人、パオロ騎士がそろそろ音を上げ始める。だが、ギュルハーネのカフェも、早朝のためか閉まっていた。熱いチャイはどこへいったら飲めるのか。

 少し惨めな気持ちになりながら、雪のディヴァン・ヨルを登る。

 右手にバーブ・アーリ(大宰相府)、左手にアライ・キョシュク(行列のキョシュク)。

 アライ・キョシュクは、遠征に出かける軍隊をスルタンが閲兵するための建物で、城壁から張り出している。向かいの大宰相府、現在のイスタンブル県庁は、オスマン帝国の政治が司られていた場所だ。その門、バーブ・アーリ(「崇高なる門」)は、「オスマン政府」の代名詞でもある。

 明治時代にオスマン帝国を旅行した日本の建築家、伊東忠太は、この門の独特の庇の形を見て、 日本の唐破風にそっくり、と驚いた。

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 坂道をさらに登り、スルタンアフメットの広場に差し掛かる。

 左手にアヤソフィアの艶姿、その向かいにはブルーモスクと愛称されるスルタンアフメット・ジャーミイ。17世紀の建造で、6世紀のアヤソフィアに対置する形で設計された。「広場」という概念が、オスマン建築に現れてくる頃のことである。

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スルタンアフメット・ジャーミイの入り口よりスルタンアフメット広場、アヤソフィアを望む

 ここでようやく求めていたものにありつく。

 それにしても、コロナでしばらく来なかったあいだに、なんと変わってしまったことだろう。どこもかしこも写真映え狙いのキラキラした食品や店だらけ、観光地ど真ん中のこの地区で、 簡素な「ふつうのポアチャ」を見つけるのは至難の技だ。見ると、人だかりがしている。この辺りで働く人々が、皆朝ごはんを買っているのだ。これこれ、これだった。熱いチャイの入ったコップで火傷しないように手を温める。

 何気なくみたメニューに、思いのこもった文章が印刷されていた。

「あなたが今座っているこのお店は、2、30年でなく、親子三代、半世紀続いたお店です。あなたが食べるポアチャは、工場で機械が作ったものではありません。この場所で発酵し、2、3時間前に焼き上がったばかりの昔ながらの味です」

 創業1961年という。昔はそれが当たり前だったのに、わざわざ発言しなければ気づいてもらえない。移り変わりの激しい観光地で、手間暇かかる「昔ながら」を維持することが、どれほど大変なことか。「コンヤル」閉店の傷心に、じんわりと響く。

 元気を取り戻して、ローマ時代の競馬場ヒッポドロームに出る。

 そこには雪の中、健気に生きる犬たちがいた。

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 トルコには野良犬や野良猫が多い。が、これは日本語でいう野良、とは少し違うのだ。地域ごとに認識され、近所の人々は当然のこととして食べ物を与える。飼い慣らしはしないが、存在を認めあう、「縛られない関係」なのである。そんな共生関係では、動物たちの方が飼い主を選ぶ、ということもよく起こる。

 公園の隅に、見慣れない装置があった。「マママティック」と書いてある。「ママ」は、トルコ語で「おまんま」。硬貨を入れると、一食分のドッグフードが出てきて、犬に餌を与えることができる、という仕組み。旧市街のあるイスタンブル市ファーティヒ区の発明らしい。

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 奈良公園の鹿煎餅、鳩にやる麦、と同じだが、これを考えたファーティヒ区の担当職員は奮っている。

 犬や猫に限らない。トルコの人の、身辺に生きるものたちへのまなざしは優しい。ラジオ番組でも呼びかけていた。

「みなさん、窓辺に水と、パンくずを置いてください。動物や小鳥たちは雪で食べ物が見つからなくて困っています」

 たしかにそうだ。雪かきなどできない小鳥たちは、雪の下にある食べ物にたどり着けないときは、死ぬだけなのだ。

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 大雪で仕事場に行けないとか、暖房費が高騰したとか、 人間にもつぎつぎと困難が降りかかる。そんなときに、ほんのひととき、自分をその問題の外に置いて見ることができるだろうか。

 自分が困難な時の、ふとした他者への思いやり。人間以外のものも、この惑星に生きているという事実。

 トルコに暮らしていると、そういう何気ない瞬間に、はっと救われることがある。余裕、ということなのかもしれない。自分が大きなものの一部に過ぎないのだ、と自然に思っている謙虚さを、感じることがある。

* * *

 18世紀のバロックのモスク、ヌル・オスマーニエの中庭から、グランド・バザールを通り抜ける。古本屋通りから国立図書館に出て、ベヤズィットのモスク。学生運動などでよくニュースに登場するイスタンブル大学前の広場も、一面の雪でいつもとは違う静けさである。

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ヌル・オスマーニエのモスク

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ベヤズィット・ジャーミイ(モスク)の中庭

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いつもは人ごみで混雑するグランド・バザールも、早朝と雪で人影もまばら

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古本屋通り。昔は本当に古本屋が軒を連ねていたが、今では新品の教科書と受験参考書店ばかり、古本屋はほんの数えるほどだ

 そしてスレイマーニエ。

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 16世紀、オスマン帝国の黄金時代を築いたスルタン、スレイマン一世(位1520-1566)の名を冠したモスクは、オスマン古典建築の決定版だ。イスタンブルの色々な場所から見える丘の上に建つ、ランドマークである(この「イスタンブル便り」連載の表紙アイコンにも選んだ)。

 スレイマーニエからは、トプカプ宮殿とボスフォラス海峡の絶景が見渡せる。手前にポコポコとあるのは、モスクを取り囲む神学校や初等学校のドームだ。スレイマンがここを計画した時、この辺りはまだ人が住まないところだった。モスクを中心に、図書館、教育施設、病院、救貧院などの福祉総合施設とし、新しい街ができた。建築家は、オスマン建築史のスーパースター、ミーマール・シナンである。

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 時代と場所、建築家と施主の、絶妙な遭遇なしにはありえない名建築を、トルコ共和国国歌の作詞者、メフメット・アーキフ・エルソイはこう讃えた。

「さあ来い、壊してやろうじゃないか、このスレイマーニエを、というなら、二本の鶴嘴つるはしと、二人の建設労働者が必要だ。じゃあもう一回、これを作り直そう、というならば、シナンが一人必要だ。そしてスレイマンが」

 だが、見晴らしがいい、ということは、全方向から風が吹き付ける、ことでもある。

 とにかく寒い。水樋の水まで、流れる形に凍っている。

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 薬師寺東塔は「凍れる音楽」と呼ばれたが、19世紀の建築史書、『オスマンの建築様式』の著者のひとり、ピエトロ・モンターニは、オスマン古典建築の特徴を「高貴なる厳格」と名付けた。これを見ると、妙に納得である。

 スレイマンの墓の脇道で、危うく転びそうになった。

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スレイマンの墓

「気をつけてね、スケートリンクみたいだね」

 向こうから歩いてきた人から励まされた。

 モスクの参道には、クルファスリエ、白いんげんの煮豆屋が軒を連ねている。 見落とされがちだが、この煮豆屋も、元はスレイマーニエ複合施設の建物の一部である。家庭料理だが、気取らない外食の定番。ふっくらと炊き上げられた豆には、ピラフを合わせるのが王道だ。 わたしはトルコ人のソウルフードはこれ、と秘かに思っている。創業1924年、「昔ながらの味」は健在だった。

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* * *

 雪が溶け、イスタンブルもすっかり日差しが明るくなった。

 美しい日曜日、森で今年初めての菫を見つけた。

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文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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