家康が“終の棲家”として過ごした駿府城|オトナのための学び旅(1)
第1回目の場所をどこにするか悩みましたが、2023年のNHKの大河ドラマの主人公が徳川家康になったということで、家康ゆかりの地、静岡の「駿府城公園」を選んでみました。
静岡駅は東京駅から東海道新幹線ひかり号で1時間弱、新大阪駅からも2時間弱で到着する、比較的アクセスの良いところにあります。その静岡駅から15分くらいバスに乗ると、駿府城の復元された「東御門」や「巽櫓」が見えてきます。
保存されているのは中堀となる「二ノ丸堀」までで、かつて存在していたそれより外側の「三ノ丸」は、現在は官庁などが並ぶ公共用地として利用されています。
駿府城公園の公式HPによると、駿府城は徳川家康の手によって、天正13年から築城が始められ、天正17年に二ノ丸までが完成したそうです。
天正13年は西暦に直すと1585年。その3年前の1582年に、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれています。信長だけでなく、信長の長男・信忠まで命を落としたこともあって、次男・信雄と、光秀を討った羽柴秀吉による、信長亡き後の主導権争いが激化します。
この2人の対立は、1584年の春頃から、小牧・長久手の戦いと呼ばれる一連の戦争に発展しました。この戦に、家康は信雄を助けるかたちで参戦します。
戦自体は信雄・家康連合軍の優勢のうちに進みましたが、11月、信雄が家康に無断で秀吉と和睦してしまったため、家康には戦を続ける理由がなくなってしまいます。戦が終わってみれば、全国統一をかけた勢力争いにおいて優位に立っていたのは秀吉でした。
「泣かぬなら 泣くまで待とう ほととぎす」の句で知られる家康が駿府城の建設を始めたのは、「待ち」の季節がもう少し続きそうな予感がする43歳の頃のことでした。
青春のほぼすべてを駿河で過ごした家康
「駿河」は、現在の静岡県の大井川より東の部分から、伊豆を除いた地域を指す言葉です。「駿河」という地名は、一説によると、日本三大急流のひとつにも数えられる富士川の流れを「駿馬」に喩えたところからきているようです。ちなみに大井川から西は「遠江」です。こちらは京の都から遠い淡江、すなわち浜名湖を指す言葉です。
室町時代、幕府からこの地域の守護大名に任じられたのは今川氏でした。今川氏は義元の時代に最盛期を迎え、駿河から遠江、三河、さらに尾張の一部まで勢力を広げます。
6歳の頃から人質として尾張の織田家にいた竹千代(のちの家康)は、8歳前後で駿河の今川氏のもとに移されました。人質生活は20歳前後まで続いたため、家康は青春のほぼすべてを駿河で過ごしたことになります。最初の妻となった築山殿は、義元の姪にあたる女性でした。
1560年、桶狭間の戦いで義元が信長に討たれると、今川家は10年経たずに衰退します。歴史ドラマなどでは信長の「敵役」として登場することの多い義元ですが、行政能力は高い評価を得ています。今でも静岡の街を少し歩くだけで、イベントや行事のポスターなどから、義元が名君として語り継がれていることが分かります。
彼は家臣団の結束を強め、国内の産業を発展させ、領国に対する室町幕府の影響力を弱めました。数多くの公家や僧侶、歌人を駿府に招き、文化の発展にも尽くしました。
義元の死によって人質生活から解放された家康は、三河で独立を果たします。今川亡き後の駿河は甲斐の武田信玄の支配下に入りますが、1573年に信玄が死亡、息子の勝頼も1582年に自害に追い込まれ、武田氏もすぐに滅亡してしまいます。
武田氏を排除した信長は、駿河の地を家康に任せ、ほどなくして本能寺で命を落とします。信長亡き後、秀吉が勢力を拡大するのを尻目に見ながら、家康は、ちょうど駿河の今川館があったあたりに城を建て始めました。これが現在の駿府城です。
その後も秀吉と対立し続けた家康でしたが、家康のもとに実の妹や生母まで送ってきた秀吉の覚悟を前に、ついに家康に臣従するに至ります。1590年、秀吉が小田原の北条氏を屈服させ全国統一を実現すると、家康は関東への移封を命じられ、駿河の地を離れることとなりました。
終の棲家としての駿府城
ちなみに、1590年は秀吉が「天下統一」を成し遂げた年と学んだ方も少なくないかと思われます。当時の「天下」はあくまで畿内周辺を指す言葉であった、という説に基づき、現在では「全国統一」と表現することが多いようです。
数々の有能な臣下を統率しながら、後に世界最大級の都市となる江戸の街の礎を築いた家康は、秀吉の死後、1600年の天下分け目の大戦・関ケ原の戦いを制して天下人となります。
1603年、朝廷から征夷大将軍に任じられた家康は、すでに還暦を越えていました。江戸幕府の将軍は徳川家の人間が代々継いでいくことを示すため、家康はわずか2年で将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府城に戻ることを決めます。
将軍職を離れた後も、駿府から「大御所」として政治に関わり続けた家康は、生前の秀吉が建てた大阪城の落城と、秀吉の息子・秀頼の死を見届け、1616年、70余年に及ぶ生涯を終えました。
駿府城はその後、火災や地震による崩壊と再建を繰り返すこととなりました。明治に入ると陸軍の管理下に置かれ、戦後、静岡市に払い下げられて現在に至ります。
復元や発掘調査が進められている現在の駿府城公園を歩きながら、若き日に人質として長く過ごした地を終の棲家に選んだ家康の心の内に思いを馳せるのもまた一興です。
文=馬屋原吉博
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