おとなりさんは100年以上前からおとなりさん、京のまちに生まれて|大西里枝(扇子屋女将)
京都市郊外に将軍塚という小高い丘がある。市内が一望できる夜景スポットとして、地元の若者が訪れる場所だ。京都には百万ドルの夜景も、高層ビルもない。山々に切り取られたちいさな窪みに、人々の暮らしの灯だけが揺れている。私は、百年以上続く京扇子製造所のひとり娘として生まれ、家業を継ぎ、このまちで商売をしている。この夜景を見るたびに、このまちの狭さを思い知らされる。
京都市の中心部は、住居がぎゅっと密集している。むかしながらの京町家が並ぶこの場所では家どうしの塀が隙間なく、みっちりとくっ付いている。
塀だけでなく、人間関係もそうだ。おとなりさんは百年以上前からおとなりさんであり、長い年月の中で構築された関係性がある。「ぶぶ漬けどうどすか*」という小話に代表されるように、京都人=いけず=意地悪だというのは、広く知られているイメージだと思う。
過日、祇園の割烹で食事をしていた時のことだ。大将から「雨もきつくなってきますし、タクシーよんでおきまひょか」と声掛けいただいたものの、外に出てみると雨上がりで月明りの美しい夜だった、ということがある。つまり、閉店時間だったのだ。お時間ですので、などとは決して言わない。長居してすみません、と客に謝らせることになるからだ。このように、本来の「いけず」は相手を思い遣り、角が立たないように自分の意思を伝えるという京都ならではのコミュニケーション文化なのだ。
「いけず」は会話の中のものではない。街中の何気ない風景の中に、しれっと隠れていたりするものだから、面白い。
例えば、関守石。黒い縄を十字に巻いた石が置かれているのは「立ち入りご遠慮ください」のサインである。寺などの庭園でよくみかけるものだが、我が家のような職住一体型の家屋の一部にも設置されている。「ここから先はプライベートですさかいに、すんまへんけど、入らんといとくれてやす」とは言いづらいものだし、言われた方もたいそう気が悪い。
犬矢来もそのひとつだ。京町家の軒下に設置される竹製の柵で、犬の糞尿を防ぐものだが、これは「軒下に入らないでください」という意思表示でもある。軒下にいると、建物の中で交わされる会話を立ち聞きできてしまうからだ。料理屋やお茶屋がずらりと並ぶ通りで犬矢来をよく見かけるが、客のプライベートが漏れないように配慮されたものだという。客に気を遣い、ただの通りすがりの人にも気を遣う。四方八方に心を配りまくっている。すごい。
どんな方向にも角を立てないように気配りするコミュニケーション手法が、いわゆる「いけず」なのだ。
将軍塚から、ここに暮らす人が灯す小さなあかりを見ると、すこし切ない気持ちになる。
この狭いまちの中で、四方八方に配慮しなければならない京都人が培ってきた、処世術こそが「いけず」である。これを意地悪と捉えられるとやはり寂しいものだ。せめてわたしが生きている間だけでも、いけずは意地悪ではなく、気遣いのうえに成り立つ、優しいコミュニケーションなのよ、と声をあげて伝えていきたい。
文・写真=大西里枝
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