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三浦から島根へ、小泉八雲への半島紀聞|新MiUra風土記

この連載「新MiUra風土記」では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第20回は、三浦半島から島根半島へ、ラフカディオ・ハーンの旅路をたずねる特別編です。 

明治23年[1890]、憧れの富士山を眺める外国人客を乗せたカナダ船アビシニア号は浦賀水道に入り、そのなかに小柄で隻眼の英国籍の紀行作家ラフカディオ・ハーンがいた。このときハーンはじぶんが日本人で小泉八雲になろうとは思いもしなかったろう。

「まるで何もかも小さな妖精の国のようだ」。上陸した初日本の横浜、鎌倉や江の島での見聞は彼を日本の歴史文化の淵に誘った。そして松江では出雲神話から民俗と怪奇譚に出会い、ハーン流の再話文学をつむいで日本人に遺した。

三浦半島から島根半島へとハーンの旅をたどってみた。

羽田空港からの出雲行きの便は、伯耆富士ほうきふじと呼ぶ大山だいせん(1,729メートル)が見えると機体がひどく揺れて窓には叢雲むらくもが付きまとった。雲や霧が発生しやすい土地なのだろう。これが「八雲立やくもた出雲いづもの国」とうものか? のっけから『出雲国風土記』の巻頭を思い出してしまう(*1)。

(*1)『出雲国風土記 全訳注』天平5年[733](萩原千鶴 講談社) 現存する五国風土記の唯一ほぼ完本といわれる。

ハーンの旅は汽車と人力車と船だった(*2)。僕もハーンのように横浜発の鉄道を求めたが5月の寝台特急「サンライズ出雲」は満床。ただハーンが体験しようがない出雲を眼下に見ることができる。

(*2)『小泉八雲展』神奈川近代文学館(同館発行 2010)。

島根半島は魚の骨のようで宍道湖しんじこ中海なかうみの連結汽水湖を抱いて東西に長い。さきの『出雲国風土記』に記されている八束水臣津野命やつかみづおみづののみこと須佐之男命すさのおのみことから4代目)が出雲国の狭さを案じて海の彼方の四つの国から領地を綱で引き寄せていまの半島ができたと云ういわゆる「国引き神話」だ。

まずは一回目の国引きで出来たのが半島西端の杵築きつきの地。その中心が杵築大社きつきたいしゃこと出雲大社いづもおおやしろ(明治4年[1871]改称)だ。ハーンが真っ先に足を運んだことにならって僕も出雲大社へ。今から20年以上前に訪れて以来、今回は3度目の旅だった。

出雲大社 勢溜せいだまりの大鳥居(二の鳥居)

大鳥居の内に露店市が並んでいて、神苑の神楽舞台では奉納神楽(タイトル写真参照)がにぎやかしく仮面演者がまく餅袋に参詣者が歓声をあげる。

一瞬、伊勢神宮を想いだす。宇治橋を渡ると凛とした聖域に一変した伊勢の内宮。出雲大社に広がる“空気”の違いにとまどった。

この神楽は能楽の様式も加えたものらしい。昔、古代ギリシャの円形劇場で観たギリシャ悲劇や喜劇の露天劇を想いだした。それは地中海の多神教の神々と人間のドラマだ。

出雲大社 拝殿の大注連縄
出雲大社 むすびの御神像

出雲大社の象徴でもある大注連縄しめなわが掛かる拝殿を詣り西側からも二礼四拍手一礼で再拝。「国譲くにゆずり」出雲国の神(大国主大神おおくにぬしのおおかみ)は西方を向いている。

出雲大社 御本殿

この御本殿に出雲大社の原初な姿だと云う高さ48メートル(現代のビル14,5階分)の空中にそびえる伝説の高層神殿を重ねた(*3)。

(*3)大林組の復元プロジェクト。『古代出雲大社の復元』(林章 学生社)

「私たちは、再び霧と伝説の聖なる土地の静寂の中を旅してゆく」(*4)。

「あなたは、大社への昇殿をゆるされた最初の西洋人です」(*同前)と、宮司千家尊紀せんげたかのり氏はハーンを御本殿に招き入れた。ハーンは昂る期待と興奮のなか、神殿の普請来歴や宝物を知り、日本最古の神殿の中で「古代信仰の脈拍を感じ」(*同前)とる。緑の峰、鳥居、柏手の木霊、巫女の舞い、それはサムネイルのようにハーンの五感に記録されたろう。

(*4)『新編日本の面影』所収「杵築」より(ラフカディオ・ハーン 池田雅之訳 角川ソフィア文庫)

ハーンは訪れたか? 拝殿から東へ、社家通りを神魂伊能知奴志神社かみむすびいのちぬしのかみのやしろ命主社いのちぬしのやしろ)に進む。ここは出雲大社より古いという磐座いわくらがあり、寄り添う樹齢1000年のムクノキの巨木の生命力が充満して、神道以前の聖域だ。スイスやアイルランドでキリスト教以前の巨石やケルトの森もこんな気配がしたものだった。

神魂伊能知奴志神社(命主社)のムクノキ。

* * *

松江を「神々の国の首都」と呼んだハーンは横浜から4ヶ月後にこの町に着いた。投宿したのは 松江を東西に貫く大橋川岸、松江大橋たもとの富田旅館だ(*5)。

(*5)『小泉八雲と松江時代』(池野誠 沖積舎)富田旅館は現存せず。現在は跡地で大橋館が営業している。

大橋川岸(左側)にかつて富田旅館があった。

ハーンの初松江はこの宿での逸話があり、僕もそれを追体験したくてすぐ裏手のホテルを選んだ。

見どころが多い松江。半島遊歩人としてはハーン好みの散歩路を手がかりにしたい。まずは旧居を訪ねてみた。

ここでぜひ見たいものがあった。それは三浦半島と島根をつなげるものでハーンが江の島で見つけたホラ貝だった。

小泉八雲記念館・旧居前

松江城の堀端の塩見縄手しおみなわて家中かちゅう屋敷(位高い武家屋敷)が並び、ハーンはここで小泉セツと新居をかまえた。いま小泉八雲記念館と国指定史跡小泉八雲旧居になっていて、ハーンは書斎机にそれを置きセツを呼ぶときに鳴らしたという。

小泉八雲旧居。居間からの眺め。
小泉八雲遺髪塔

ハーンの遺髪を納めた五輪塔が迎える記念館で江の島のホラ貝を確かめて、壁にかかっている54歳で全うしたハーンの旅の軌跡クロニクルを追ってみた(*6)。ハーン小泉八雲といえば松江と連想するが、その滞在年月は1年3ヶ月に過ぎない。日本帰化も八雲の改名もその後だった。

(*6)『小泉八雲 開かれた精神(オープン マインド)の軌跡』(小泉凡監修 小泉八雲記念館発行)

クリミア戦争に従軍した英国軍医の父はアイルランド系で、母はイオニア海の島のギリシャ人。幼少期に父母ともに離別。左眼を失明しアイルランドのダブリンからイギリスへわたり、アメリカへ、地方誌の記者をへてカリブ海のマルティニーク島でクレオール文化の多神教多文化を授かった。アイリッシュの血と島、ギリシャ神話の海で育ち、ケルトの妖精と出会い、ブードゥー教を目撃してきたハーンには八百万やおよろずの「神国日本」を受け入れる心身はできていたのだ。

ハーンの散歩道をたどろう。

朝、柏手を打つ音が聞こえたという松江城(国宝 慶長16年[1611])下の旧居のあるもと武家屋敷地区の堀の稲荷橋を渡って城内へ。城山稲荷神社はハーンがお気に入りの狐像があった杜。彼は森羅万象の生きものに親和性をもち、とくに虫の研究家でもあった。

城山稲荷神社

松江城に「怪奇なものを寄せ集めてできた竜のよう」とセルビア民謡をひき人柱伝説を投影するのがハーンらしいが、さすがに国宝松江城、なっとくできる品性と重厚さがさきにたつ。

松江城

明治の洋館興雲閣(明治36年[1903])をのぞき城下へ向かう。

松江は市中を四方に張り巡らせた河川と水路が街並みを豊かにしている。ハーンは松江の町を3つに区分した。旧居の士族地区と商人街と寺町だ。南下してみよう、ハーンが好きだった大橋川南岸へ。

ハーンが下駄の音を聴いた松江大橋。

さきの富田旅館跡前の松江大橋を渡ると源助記念碑が(これも人柱伝説!)あり、この河岸にハーンは初上陸していた。天神地区と呼ばれるこの一帯は廻船問屋や豪商のゆかりの地で、庶民の遊興歓楽の街区だった。いまも松江初のデパート「出雲ビル」(大正14年[1925])がこの街のアイコンとして健在であり、アパレル店などが開いている。

出雲ビル
旧紳士服トラヤはリノベーションされて陶器店に(昭和7年[1931])。

ハーンはとくに隣の寺町の路地めぐりが好きだった。そして西側の宍道湖畔の白潟の浜は夕陽が絶品。

ただ宍道湖の落日の眺めならば、21世紀ではこの浜の南岸の島根県立美術館になる。奇遇だが現在『光の記憶 森山大道』展が開催中。三浦半島の逗子在住の伝説のアバンギャルドな写真家は島根で幼少期を過ごしたことがある。筆者ともえにしがあって三浦と島根がここでもリンクしてしまった。

島根県立美術館

「やがて、私たちは、今まで視界から隠されていた、この世のものとは思えないほど可愛いらしい小さな入江に入る」(*7)。

(*7)『新編日本の面影II』所収「美保関にて」より(ラフカディオ・ハーン 池田雅之訳 角川ソフィア文庫)

それは「国引き神話」で能登から地塊を引き寄せた島根半島東端の美保関みほのせきだ。ハーンはこの湊がお気に入りで松江を離れても再訪していた。

大山を望むハーンお気に入りの美保関の湊。

かつて松江から美保関へは境港を経由しての蒸気船があったが、今は松江駅からバスを乗り継ぐことになる。

半島の海岸線の対岸に弓ヶ浜半島(鳥取県)を眺めて走る。境港の埠頭にゲゲゲの鬼太郎マークの隠岐島航路のフェリーが着岸している。隠岐島をルーツにし境港で育った水木しげるは両半島のはざまの境水道をよく行き来して美保関で遊んだ(*8)。ハーンの記憶にあるだろうか。出生地ギリシャのレフカダ島も本土とは海の水道で結ばれている。

(*8)『水木しげるの古代出雲』(水木しげる 角川文庫)

境港港の隠岐汽船のフェリー。
美保湾の男女(めおと)岩

この湊の鎮守は美保神社で祀るのはコトシロヌシ(オオクニヌシの息子)とミモツヒメ。コトシロヌシは鯛釣り名手のえびす様と伝わり、神社は全国3385社の総社で、出雲大社とともに出雲国の西と東で崇敬されてきた。

美保神社拝殿は、伊東忠太監修による。

美保神社は二神を祀るため大社造りの本殿(国重文)を2棟並べる「美保つくり」と呼ばれて、参拝した拝殿はあの汎アジアで奇想の建築家伊東忠太監修によるものだった(昭和3年[1928])。

社の前から青石畳通りを歩く。北前船で賑わったこの湊の物資集散の効率化のために海石で舗装した街並だ。旅館や商家が建ち並び、風情ある観光スポットになっている。

青石畳通り

湊の往年の夜の賑わいについてハーンの筆は躍動していて、「宿屋の裏手から深さが三メートル半ほどある透き通った海に飛び込んだ」というなじみの船宿「島屋」は無くなるが、石川啄木ら文士宿の「美保館」は営業している。

雲に隠れた伯耆富士、出雲富士とも呼ばれる霊峰大山(だいせん)。手前は孝霊山(こうれいさん)。

えびす様が鯛を釣っていた島を見てみたい。その地蔵崎には美保関灯台(国重文 明治31年[1898])が建っている(*9)。

美保関灯台

(*9)国際航路標識協会が1998年に提唱した「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」に選定された日本にある5つのうちのひとつ。撮影協力(一社)松江観光協会美保関町支部

晴れ日には隠岐諸島が眺められるという灯台への散策路で日本海が開いた。案内板には竹島とその距離が記されていてあの島は島根県だったこと思い出す。

地蔵岬からは隠岐島が見える日もある。

灯台の裏手の崖に遥拝所になる鳥居がぽつりと立っている。その隙間から鯛釣りえびす様の島が見えると聞いた。それは地の御前、沖の御前と呼ばれる二つの岩礁サイズの小島だ。

遥拝所の沖合に小島が見える。

あまたの七福神信仰でえびす神だけが日本固有の神らしい。そんな日本の基層とこの美保関の岬で出会った気がした。岬はさまよう船や人を導くもので古来神だったのだろう。

目が不自由で聴覚がたよりの元祖遊歩人ハーンの人生は海と島を渡るもので、早くから非キリスト教反西洋で、多文化共存の文明観を身を持って知る旅だった。島根の西から東へ、そこは作家小泉八雲への養土たっぷりの半島だったろう。

京橋川端

松江さいごの日は雨になり、宍道湖は灰褐色で下駄の音がした大橋川岸に霧がでる。小泉八雲の怪奇譚の松江を感じたくて村雨むらさめのなか夕闇の城下を徘徊してみた(*10)。幻視幻覚をえるまでまた来なくてはならない。

(*10)『怪談』(ラフカディオ・ハーン 平井呈一訳 岩波書店)

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在住の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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