三浦から島根へ、小泉八雲への半島紀聞|新MiUra風土記
明治23年[1890]、憧れの富士山を眺める外国人客を乗せたカナダ船アビシニア号は浦賀水道に入り、そのなかに小柄で隻眼の英国籍の紀行作家ラフカディオ・ハーンがいた。このときハーンはじぶんが日本人で小泉八雲になろうとは思いもしなかったろう。
「まるで何もかも小さな妖精の国のようだ」。上陸した初日本の横浜、鎌倉や江の島での見聞は彼を日本の歴史文化の淵に誘った。そして松江では出雲神話から民俗と怪奇譚に出会い、ハーン流の再話文学をつむいで日本人に遺した。
三浦半島から島根半島へとハーンの旅をたどってみた。
羽田空港からの出雲行きの便は、伯耆富士と呼ぶ大山(1,729メートル)が見えると機体がひどく揺れて窓には叢雲が付きまとった。雲や霧が発生しやすい土地なのだろう。これが「八雲立つ出雲の国」と云うものか? のっけから『出雲国風土記』の巻頭を思い出してしまう(*1)。
ハーンの旅は汽車と人力車と船だった(*2)。僕もハーンのように横浜発の鉄道を求めたが5月の寝台特急「サンライズ出雲」は満床。ただハーンが体験しようがない出雲を眼下に見ることができる。
島根半島は魚の骨のようで宍道湖と中海の連結汽水湖を抱いて東西に長い。さきの『出雲国風土記』に記されている八束水臣津野命(須佐之男命から4代目)が出雲国の狭さを案じて海の彼方の四つの国から領地を綱で引き寄せていまの半島ができたと云ういわゆる「国引き神話」だ。
まずは一回目の国引きで出来たのが半島西端の杵築の地。その中心が杵築大社こと出雲大社(明治4年[1871]改称)だ。ハーンが真っ先に足を運んだことにならって僕も出雲大社へ。今から20年以上前に訪れて以来、今回は3度目の旅だった。
大鳥居の内に露店市が並んでいて、神苑の神楽舞台では奉納神楽(タイトル写真参照)がにぎやかしく仮面演者がまく餅袋に参詣者が歓声をあげる。
一瞬、伊勢神宮を想いだす。宇治橋を渡ると凛とした聖域に一変した伊勢の内宮。出雲大社に広がる“空気”の違いにとまどった。
この神楽は能楽の様式も加えたものらしい。昔、古代ギリシャの円形劇場で観たギリシャ悲劇や喜劇の露天劇を想いだした。それは地中海の多神教の神々と人間のドラマだ。
出雲大社の象徴でもある大注連縄が掛かる拝殿を詣り西側からも二礼四拍手一礼で再拝。「国譲り」出雲国の神(大国主大神)は西方を向いている。
この御本殿に出雲大社の原初な姿だと云う高さ48メートル(現代のビル14,5階分)の空中にそびえる伝説の高層神殿を重ねた(*3)。
「私たちは、再び霧と伝説の聖なる土地の静寂の中を旅してゆく」(*4)。
「あなたは、大社への昇殿をゆるされた最初の西洋人です」(*同前)と、宮司千家尊紀氏はハーンを御本殿に招き入れた。ハーンは昂る期待と興奮のなか、神殿の普請来歴や宝物を知り、日本最古の神殿の中で「古代信仰の脈拍を感じ」(*同前)とる。緑の峰、鳥居、柏手の木霊、巫女の舞い、それはサムネイルのようにハーンの五感に記録されたろう。
ハーンは訪れたか? 拝殿から東へ、社家通りを神魂伊能知奴志神社(命主社)に進む。ここは出雲大社より古いという磐座があり、寄り添う樹齢1000年のムクノキの巨木の生命力が充満して、神道以前の聖域だ。スイスやアイルランドでキリスト教以前の巨石やケルトの森もこんな気配がしたものだった。
* * *
松江を「神々の国の首都」と呼んだハーンは横浜から4ヶ月後にこの町に着いた。投宿したのは 松江を東西に貫く大橋川岸、松江大橋たもとの富田旅館だ(*5)。
ハーンの初松江はこの宿での逸話があり、僕もそれを追体験したくてすぐ裏手のホテルを選んだ。
見どころが多い松江。半島遊歩人としてはハーン好みの散歩路を手がかりにしたい。まずは旧居を訪ねてみた。
ここでぜひ見たいものがあった。それは三浦半島と島根をつなげるものでハーンが江の島で見つけたホラ貝だった。
松江城の堀端の塩見縄手は家中屋敷(位高い武家屋敷)が並び、ハーンはここで小泉セツと新居をかまえた。いま小泉八雲記念館と国指定史跡小泉八雲旧居になっていて、ハーンは書斎机にそれを置きセツを呼ぶときに鳴らしたという。
ハーンの遺髪を納めた五輪塔が迎える記念館で江の島のホラ貝を確かめて、壁にかかっている54歳で全うしたハーンの旅の軌跡を追ってみた(*6)。ハーン小泉八雲といえば松江と連想するが、その滞在年月は1年3ヶ月に過ぎない。日本帰化も八雲の改名もその後だった。
クリミア戦争に従軍した英国軍医の父はアイルランド系で、母はイオニア海の島のギリシャ人。幼少期に父母ともに離別。左眼を失明しアイルランドのダブリンからイギリスへわたり、アメリカへ、地方誌の記者をへてカリブ海のマルティニーク島でクレオール文化の多神教多文化を授かった。アイリッシュの血と島、ギリシャ神話の海で育ち、ケルトの妖精と出会い、ブードゥー教を目撃してきたハーンには八百万の「神国日本」を受け入れる心身はできていたのだ。
ハーンの散歩道をたどろう。
朝、柏手を打つ音が聞こえたという松江城(国宝 慶長16年[1611])下の旧居のあるもと武家屋敷地区の堀の稲荷橋を渡って城内へ。城山稲荷神社はハーンがお気に入りの狐像があった杜。彼は森羅万象の生きものに親和性をもち、とくに虫の研究家でもあった。
松江城に「怪奇なものを寄せ集めてできた竜のよう」とセルビア民謡をひき人柱伝説を投影するのがハーンらしいが、さすがに国宝松江城、なっとくできる品性と重厚さがさきにたつ。
明治の洋館興雲閣(明治36年[1903])をのぞき城下へ向かう。
松江は市中を四方に張り巡らせた河川と水路が街並みを豊かにしている。ハーンは松江の町を3つに区分した。旧居の士族地区と商人街と寺町だ。南下してみよう、ハーンが好きだった大橋川南岸へ。
さきの富田旅館跡前の松江大橋を渡ると源助記念碑が(これも人柱伝説!)あり、この河岸にハーンは初上陸していた。天神地区と呼ばれるこの一帯は廻船問屋や豪商のゆかりの地で、庶民の遊興歓楽の街区だった。いまも松江初のデパート「出雲ビル」(大正14年[1925])がこの街のアイコンとして健在であり、アパレル店などが開いている。
ハーンはとくに隣の寺町の路地めぐりが好きだった。そして西側の宍道湖畔の白潟の浜は夕陽が絶品。
ただ宍道湖の落日の眺めならば、21世紀ではこの浜の南岸の島根県立美術館になる。奇遇だが現在『光の記憶 森山大道』展が開催中。三浦半島の逗子在住の伝説のアバンギャルドな写真家は島根で幼少期を過ごしたことがある。筆者ともえにしがあって三浦と島根がここでもリンクしてしまった。
「やがて、私たちは、今まで視界から隠されていた、この世のものとは思えないほど可愛いらしい小さな入江に入る」(*7)。
それは「国引き神話」で能登から地塊を引き寄せた島根半島東端の美保関だ。ハーンはこの湊がお気に入りで松江を離れても再訪していた。
かつて松江から美保関へは境港を経由しての蒸気船があったが、今は松江駅からバスを乗り継ぐことになる。
半島の海岸線の対岸に弓ヶ浜半島(鳥取県)を眺めて走る。境港の埠頭にゲゲゲの鬼太郎マークの隠岐島航路のフェリーが着岸している。隠岐島をルーツにし境港で育った水木しげるは両半島のはざまの境水道をよく行き来して美保関で遊んだ(*8)。ハーンの記憶にあるだろうか。出生地ギリシャのレフカダ島も本土とは海の水道で結ばれている。
この湊の鎮守は美保神社で祀るのはコトシロヌシ(オオクニヌシの息子)とミモツヒメ。コトシロヌシは鯛釣り名手のえびす様と伝わり、神社は全国3385社の総社で、出雲大社とともに出雲国の西と東で崇敬されてきた。
美保神社は二神を祀るため大社造りの本殿(国重文)を2棟並べる「美保つくり」と呼ばれて、参拝した拝殿はあの汎アジアで奇想の建築家伊東忠太監修によるものだった(昭和3年[1928])。
社の前から青石畳通りを歩く。北前船で賑わったこの湊の物資集散の効率化のために海石で舗装した街並だ。旅館や商家が建ち並び、風情ある観光スポットになっている。
湊の往年の夜の賑わいについてハーンの筆は躍動していて、「宿屋の裏手から深さが三メートル半ほどある透き通った海に飛び込んだ」というなじみの船宿「島屋」は無くなるが、石川啄木ら文士宿の「美保館」は営業している。
えびす様が鯛を釣っていた島を見てみたい。その地蔵崎には美保関灯台(国重文 明治31年[1898])が建っている(*9)。
晴れ日には隠岐諸島が眺められるという灯台への散策路で日本海が開いた。案内板には竹島とその距離が記されていてあの島は島根県だったこと思い出す。
灯台の裏手の崖に遥拝所になる鳥居がぽつりと立っている。その隙間から鯛釣りえびす様の島が見えると聞いた。それは地の御前、沖の御前と呼ばれる二つの岩礁サイズの小島だ。
あまたの七福神信仰でえびす神だけが日本固有の神らしい。そんな日本の基層とこの美保関の岬で出会った気がした。岬はさまよう船や人を導くもので古来神だったのだろう。
目が不自由で聴覚がたよりの元祖遊歩人ハーンの人生は海と島を渡るもので、早くから非キリスト教反西洋で、多文化共存の文明観を身を持って知る旅だった。島根の西から東へ、そこは作家小泉八雲への養土たっぷりの半島だったろう。
松江さいごの日は雨になり、宍道湖は灰褐色で下駄の音がした大橋川岸に霧がでる。小泉八雲の怪奇譚の松江を感じたくて村雨のなか夕闇の城下を徘徊してみた(*10)。幻視幻覚をえるまでまた来なくてはならない。
文・写真=中川道夫
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