教えて!木造モダニズム建築の傑作・日土小学校をつくった松村正恒の魅力|八幡浜(愛媛県)
日土小学校との衝撃の出会い
1994(平成6)年、ある建築雑誌の取材で初めて日土小学校を訪れた花田佳明さんは、夢中で写真を撮り続けたという。同行した編集者には「泣きながら写真を撮っていた」と笑われたそうだ。
「日土小学校を訪れる直前まで、松村正恒という建築家の名前さえ知りませんでした。でも日土小学校をひと目見た瞬間に、ガツンとやられてしまった。非常に理知的な構成なのに、あらゆる空間が子どもの居場所として設計されている。ほんとうに驚きましたね。神戸の自宅に戻ってからも、あの日見たものは、夢だったんじゃないかと思うほどでした」
以降、花田さんは憑かれたように松村正恒の研究に没頭することになる。
松村建築が新しいわけ
松村は、花田さんが日土小学校を訪れた前年に他界していた。花田さんは、松村建築の魅力を解き明かそうと、八幡浜市役所に残る設計図や彼の著作などをつぶさに調べ始める。
「松村は、教室にいかに光と風を取り込むかを徹底的に考えていました。そしていきついたのが、両面採光という方法。川之内小学校で試し始めたこのアイデアは、日土小学校で完成をみます。彼の仕事がおもしろいのは、階段を一段一段上がるように、自分が設計した建物で実験を重ねているところなんです」
日本のモダニズムの建築家は、ル・コルビュジエ* など、海外の建築家のスタイルを学んで模倣し、自身の建築に応用してきた。
「もちろん、松村も海外の情報は熟知していました。バウハウス* 帰りの教師の薫陶を受けたり、建築雑誌の編集長に目をかけられ、海外文献の翻訳を手伝ったりしていたこともあるくらいです。でも、松村は自分の内から生まれたものだけを手がかりにして、次の、またその次の建築を展開していきました。つまり他人を手がかりにしていない。それを僕は、自己参照的メカニズムと呼んでいます。だから、松村のつくる学校には、見たことのない新しさがあるんです」
最大の理解者、菊池清治
戦後間もない1947(昭和22)年から、文部省(当時)はモデルスクールを指定し、新しい時代にふさわしい学校建築の普及に励んだ。1949年には、校舎の規格ともいえる、標準設計が作成されている。
「そうした標準的な学校建築は、強制ではなかったので、松村は意に介さなかったんでしょう。日土小学校では、両面採光に加え、パステル調の彩色プラン、喜木川にせり出したベランダ、廊下と教室を切り離したクラスター型の教室配置など、細部に至るまで松村流に設計し尽くされています。また木造と鉄骨造によるハイブリッド構造* 、カーテンウォール方式* によるガラス窓など、モダニズム建築の手法も随所に取り入れられました」
しかし、そんな斬新な学校に反対の声はあがらなかったのだろうか。
「もちろん反対するひともいたようです。でも、菊池清治という当時の八幡浜市長が盾になってくれました。学者市長ともいわれた博識の菊池は、松村の最大の理解者でした。菊池が市長を辞任すると松村も市役所を辞めて独立したことからも、両者の信頼関係の厚さがわかります」
建築のユートピア
日土小学校では現在、長期の休みを利用して年に3回、見学会が開かれている(その他の日は見学不可)。夏休みの見学会では子どもたちもガイド役として大活躍する。
「建物というのは難しいもので、どれほど優れたデザインでも必ず文句が出るのがふつう。でも、僕は日土小学校を悪くいうひとに会ったことがありません。見学会に学生を何度も連れていきましたが、説明するのに忙しくなかなかゆっくりはできません。まるで七夕の束の間の逢瀬のようで、いつも帰りの車内で寂しくなりました。日土小学校は、不思議なくらい普遍性と具体性を併せもったユートピアのような建築だと思います」
文=橋本裕子 写真=荒井孝治
――本誌特集記事では、松村がつくった、愛媛県八幡浜の旧川之内小学校、日土小学校をご紹介します。やわらかな自然光あふれる教室、小さな歩幅にぴったりの階段、随所に使われているパステルカラー。松村が目指した「学校という器ではなく、子どもたちの居場所そのものをつくる」という空間をぜひお楽しみください。彼の足跡が残る八幡浜の歴史、現在進行形で活躍する八幡浜の人々も紹介いたします。
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出典:ひととき2022年8月号
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