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それは、おかえりの街:歌川広重「阿波鳴門之風景」|赤木美智(太田記念美術館学芸員)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただく連載あの街、この街。第46回は、浮世絵を専門とする太田記念美術館の学芸員、赤木美智みちさんに鳴門の渦潮について綴っていただきました。赤木さんは、歌川広重が鳴門の海を描いた浮世絵に、故郷への想いを重ねます。

私は、徳島県徳島市の出身である。高校卒業までをこの街で過ごし、大学からは大阪、30代以降は東京で暮らしている。今回は故郷の徳島市ではなく県の北西に位置する鳴門市について書きたいと思う。鳴門市は、西は香川県に接し、北東には兵庫県淡路島が控える、徳島県の玄関口のひとつである。

30年近く昔のことだが、私は大阪の大学を受験するため徳島―和歌山航路の高速船に乗っていた。和歌山を経由し大阪に向かうルートである。現在、本州と四国を結ぶ自動車道が3つあるが、当時はいずれも開通していなかった。私たちが四国の外に出るには船か飛行機が必須だったのだ。

1998年(平成10年)、明石と淡路島を結ぶ明石海峡大橋が開通。淡路島と鳴門はすでに鳴門海峡大橋で結ばれており、ここに神戸淡路鳴門自動車道が誕生する。

大阪と徳島をつなぐ高速バスも就航され、大阪で学生生活を送っていた私はその恩恵を大いに受けた。バスは大阪梅田で乗り込んだ2時間半後には、私を徳島駅前へ運んでくれたのだ。数え切れないほど利用したが、いつしか梅田を出発し、神戸を過ぎ、明石海峡大橋を渡り、淡路島を約1時間走り(淡路島は大きい)、鳴門海峡が見えてくると「ああ、帰ってきたな」と感じるようになった。

多くの海を知っているわけではないけれど、瀬戸内、とりわけ鳴門の海は穏やかで美しいと思う。深緑の水面に太陽がキラキラと反射する様はとても綺麗だし、対岸が見えるという安心感は何物にも代えがたいものがある。

「渦の道」近くから鳴門の海を眺める(2024年1月筆者撮影)

さてこの鳴門の海を描く浮世絵に、歌川広重の「阿波鳴門之風景」がある。今でも鳴門は、徳島の代表的な観光名所である渦潮を擁することで知られるが、江戸時代も同様でしばしば絵画化されてきた。本図もそうしたひとつなのだが、私はこの絵を見るたびに「広重先生……、わかってるな」と思ってしまうのである。

【図1】歌川広重「阿波鳴門之風景」安政4年(1857) シカゴ美術館 The Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham Collection

何がどう、わかっている、なのか。

広重は本図以前にも、「六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波」で鳴門を描いている。豪快な渦潮が出現した鳴門の海の、なんと荒々しいことか。ここには、多くの人がイメージする渦潮が形にされているといってよい。

歌川広重「六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波」安政2年(1855) シカゴ美術館
The Art Institute of Chicago, Frederick W. Gookin Collection

だがしかし、である。実際には、こうしたダイナミックな渦潮にお目にかかるのは簡単ではない。私はドライブで鳴門を訪れたことも、うずしお観潮船に乗ったことも、渦潮の上を通る遊歩道「渦の道」を歩いたこともある。そして渦潮は、1日2回現れるという。それでも、いまだしっかりとした渦潮が現れた時刻に居合わせたことがない。

裏を返せば、鳴門の海は常に渦が巻く激しい海ではない、といえるだろう。

再び「阿波鳴門之風景」【図1】を見てほしい。画面手前が鳴門側で、左から奥へ続くのが淡路島。海面には複数の渦が確認できるがその描写はどこか控えめで、広重の主眼は、水平線を高く取り、空気遠近法*も駆使して、広やかな海を画面いっぱいに展開させることにあったと思われる。

*遠くにあるものほど、青みがかったり霞がかかったり、輪郭線が曖昧になるように描くこと

なお、広重が実際に鳴門を訪れた可能性は低く、先行する淵上旭江ふちがみきょっこうの風景絵本『山水奇観』「阿波鳴門」「阿波鳴門其二」に多くを拠るかたちで制作したと考えられている。

『山水奇観』前編(寛政12年[1800]刊)「阿波鳴門」「阿波鳴門其二」 
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

その『山水奇観』が、そもそも渦潮を含めた周辺の景観をとらえる構図であった。また広重は「木曽路之山川」「武陽金沢八勝夜景」(図2)と本図とを同じシリーズとして制作されたとされ、現在ではこの3図は「雪月花三部作」と呼ばれている。「阿波鳴門之風景」は他2図との差別化を図るためもあってであろう、晴れた穏やかな天候のもと淡く明るい彩色で景色が展開する。

【図2】左「木曽路之山川」安政4年(1857) シカゴ美術館
The Art Institute of Chicago, Gift of Frederick S. Colburn 
右「武陽金沢八勝夜景」安政4年(1857) シカゴ美術館
The Art Institute of Chicago, Clarence Buckingham Collection

その朗らかな海の気分こそが、私が抱く鳴門のイメージと一致する。そのため描写を見るたび、なぜ広重はこんな風に描けたのか、現地の風土に触れた人からも話を聞いたのではないか、とも思いを巡らしてしまうのである。

鳴門側から鳴門海峡大橋を眺める(2024年1月筆者撮影)

現在、私は飛行機で帰省している。徳島阿波おどり空港は鳴門のすぐ南、板野郡松茂町に位置していて、空港からは海を眺めることもできる。
鳴門の海と空は、昔も今も私にこう語りかける

「おかえり――」と。

文・写真=赤木美智

▼太田記念美術館:企画展「広重ブルー

企画展「広重ブルー
2024年10月5日(土)~12月8日(日)
[前期] 10月5日(土)~11月4日(月・祝)
[後期] 11月9日(土)~12月8日(日)※前後期で全点展示替え
10月7、15、21、28、 11月5-8、11、18、25日は休館します
太田記念美術館

東京都渋谷区神宮前1-10-10
☎050-5541-8600
[開館時間]10時30分~17時30分(入館は17時まで)
[休]毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)
[入館料]一般 1,000円、大高生 700円、中学生以下無料
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/

赤木美智(あかぎ・みち)
1977年徳島県生まれ。太田記念美術館主幹学芸員。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は江戸の絵画史。太田記念美術館にて「広重ブルー」「江戸の恋」「江戸にゃんこ‐浮世絵ネコづくし」などの展覧会を担当。さまざまな角度から浮世絵の魅力を掘り下げている。近著に『浮世絵動物園:江戸の動物大集合!』(小学館)『美人画で味わう 江戸の浮世絵おしゃれ図鑑』(メイツ出版)。

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