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本音で生きるという違和感

人が本音で生きようとしたとき
たとえ生きられない本音があったとしても
人は本音で生きていると言えるんだろうか


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本音を軸に活動をしているのに、こんなこと言って良いのか?という迷いもあるが。実は「本音で生きる」という言葉に違和感を持っている。

もちろん、そこに込められた意味や想いを否定したいわけじゃない。本音で生きるという言葉が活用される世界には、その世界での定義があるわけで。それを蹴散らした上で「本音とは斯くあるべし!」なんて言うつもりはない。

ただ、本音で生きようとしたときに、生きられない本音が出てくることに、本音屋としてはもやもやしている。

たとえば、人に嫌われるのが怖くて、言いたいことが言えない人がいたとして。本音で生きようとすると、嫌われるのを恐れずに生きていこう!といった話になると思う。

それじゃあ「嫌われるのが怖い本音」はどうすればいいのか。

言いたいことが言えるようになりたい!って本音と同じくらい、嫌われるのが怖い!って本音もあるはずで。どちらかだけが本音なんてことはない。

ただ、本音で生きようとすると「本音を選ぶ」必要が出てくる。選ぶだけならまだしも、良いとか悪いとか本音をジャッジするようになる。

そんなことを始めたら、ますます本音で生きることなんてできない。本音で生きているように見えても、何かしらの基準で良いと判断した本音で生きているだけだ。

そして、リアルに出せない本音もある。

社会的にとか倫理的にとか今ある本音がたまたま外の世界に向いていない場合は、最初から本音で生きることができない。

それなら出しても問題なさそうな本音だけ出してれば、本音で生きていると言っていいのか。出せる本音が多い人ほど本音で生きられるのか。

そんな定義はなんというかしっくりこない。もやもやする。だから違和感があるかもしれない。


本音はひとつでもなければ、生きる軸に向いてないものもある。でも紛れもなく「本音」だ。

生きるという言葉に引っぱられて、本音が本音であることが許されないような事態にしたくない。

できることなら、本音で生きずに、本音とともに生きて欲しい。


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