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【エッセイ風】AIとシュルレアリスムと
シュルレアリスムは、フランス語で超現実という意味 (surrealism) 。第一次世界大戦後の1920年代にフランスで興った芸術運動で、『理性から解き放たれた無意識』によって人間の全体性を回復しようと目指したものでした。
理性から解き放たれるということは、今までの美意識や常識、「こうすれば美しいんじゃないか」という計算を捨てるということです。もっといえば、いっさいの理性的・論理的判断を排除するために、「自動記述」といって頭に浮かんだ言葉をそのまま記録して詩を創作する手法も編みだされました。そうして人間の深層心理を明らかにし、それまでになかったやり方で思考そのものの働きを表現しようとしたのです。
解剖台の上での、ミシンと蝙蝠傘との偶然の出会いのように美しい
Il est beau [...] comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine à coudre et d'un parapluie !
というのは、ロートレアモン卿による詩『マルドロールの歌』の一節です。理性を封じ込めるからこそ、こんな場違いな邂逅がクローズアップされることになりました。
シュルレアリスムの流れに含まれるのは、ダリの『記憶の固執』で描かれるゆがんだ時計に這いまわる蟻、マルグリッドの『人の子』で顔がりんごに置き換わった男の肖像、文学でいうアポリネールの『アルコール』など。どれも奇抜なものの取り合わせで、独特な不気味さをそなえていたりもして、近寄りがたい印象をあたえるかもしれません。
前置きが長くなりましたが、今日はこの『シュルレアリスム』という運動がどのような背景で生まれ、なにを遺したのか、三冊の本を手掛かりにひもといていきたいと思います。
一冊目は『シュルレアリスム 終わりなき革命』という本です。酒井健さんというフランス文学者による新書で、解説本としては読みやすく、手に取りやすい一冊だと思います。この本を読んで、わたしは一見難解なシュルレアリスムの深い背景に興味を持つことになりました。この本では、シュルレアリスムが興った背景には、第一次世界大戦によって高まった「理性」や「文明」への不信や怒りがあると述べられています。
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作者:酒井健
発売日: 2014/07/11
メディア: Kindle版
一九二〇年代にシュルレアリストとして活躍した人々、およびその周辺にいた人々は、おおむね一八九〇年代の生まれであり、青春の大切な時期を一九一四年から四年間続いた第一次世界大戦に奪われたものが多かった。(中略)第一次世界大戦の戦場においては、どの陣営の兵士たちも、「文明人」であるにもかかわらず、その理性は脆弱であり、野蛮な衝動に翻弄されるままになっていた。
第一次世界大戦は、初めて近代兵器が大規模に使われた戦争といわれます。戦車や毒ガス、塹壕戦によってフランスでは若者の六人に一人が命を落としました。文明が発展し、国の利益のための合理的判断によって開始されたはずの戦争は、蓋を開けてみると野蛮で冷酷な殺し合いに過ぎなかった。だからこそ、シュルレアリストたちは「理性」に反発し、そのかわりに理性を離れた「放心状態」と「精神分析」に注目することで、人間性を新しく見出そうとしたのです。ナンセンスで不条理、気を衒っているようにも見えるシュルレアリスムに切実な人間性の探求があったと知り、衝撃を受けました。
もう一冊、文学に重きをおいた本で、塚原史さんの『シュルレアリスムを読む』という本があります。『シュルレアリスム宣言』を発表したシュルレアリスムの中心人物、詩人のアンドレ・ブルトンが自動記述によって書いた詩の冒頭を、この本から引用します。
![](https://assets.st-note.com/img/1667818073467-qotO2oRrz5.jpg)
作者:塚原 史
発売日: 1998/05/01
メディア: 単行本
Prisonniers des gouttes d'eau, nous ne sommes que des animaux perpétuels. Nous courons dans les villes sans bruits et les achiffes enchantées ne nouts touchent plus. À quoi bon ces grands enthousiasmes fragiles, ces sauts de jie desséchés? Nous ne savons plus rien les astres morts;
(和訳)水滴の囚人、われわれは永久の動物に過ぎない。物音のしない都市をわれわれは走り抜け、魅惑的なポスターにももう心を動かされはしない。あの壊れやすい熱狂、あの干からびた歓喜の跳躍がいったい何の役に立つだろう。われわれはもう死んだ星たちしか知らない。…
心に浮かぶイメージを次から次へ、予断をはさまないよう高速で書き記す自動記述において、ブルトンは出来上がった作品を手直しすることを嫌いました。しかし、この詩を見るとすべてが完全にでたらめなわけではなく、文法はあくまでも正しい作法に則って書かれていることがわかります。
同じ時期に、理性一般を排除して虚無やパフォーマンス的な破壊運動を行う『ダダイズム』という前衛的芸術運動がありました。ダダイズムも似たような手法で詩作が試みられましたが、それは「新聞から単語を一語ずつ切り取り、帽子の中に入れて、つかみ取った順に並べる」という偶然任せのコラージュ法でした。この方法では文法も主語と述語の一致もなく、ただの意味もない言葉の羅列でした。
ブルトンは、親の期待を裏切って前衛作家の道を進むことにしたのだが、しかしダダの無意味なしい運動には停滞感を覚えるようになっていた。同じような騒ぎの繰り返し、ただの愚劣に過ぎない催しにうんざりしていたのだ。(中略)まさにダダのニヒリズム(無価値さ)にブルトンは我慢できなくなったのである。(中略)ブルトンはさらにしっかりした構文で美しい詩を作っていた。近代的な批判精神を発揮していくのと同様に近代フランス語文法に則った作品を製作していく方向に向かったのだ。
理性の介入は否定するけれど、意味は否定しない。立ち戻ってみると、シュルレアリスムの精神は「人間の全体性を回復」することを目的としていました。ブルトンは構文を保つことで、無価値になってしまいそうなぎりぎりのところで意味を保ち、イメージつながりの詩を生み出す人間の思考のほうをあぶり出そうとしたのかもしれません。
話は変わりますが、人工知能(AI)が小説を書く時代になりました。『人口知能の見る夢は』という題で、AIが書いたショートショート集も出版されています。
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私はF恵。普段は将棋の棋士AIとして働いている。私はあらゆる手を想定でき、未だに負けたことが無い。今日、私は人狼テストを受けさせられることになった。このような遊びをして何の意味があるのだろう。開発者はやる気だが、私はあまり乗り気ではなかった。
恣意なく言葉が並べられて、文法的には瑕疵がない文章ができあがる。シュルレアリスムやダダイズムと引き較べた時、これには「理性」や「意味」はあるのかと、考えてしまいます。ブルトンが経験しただろう、理性と意味との間の絶妙なせめぎ合いを考えると、形は似ていてもシュルレアリスム詩とAI文学は似て非なるものに思えます。AIが生み出した作品に人間が美を見いだすのかどうかは、たぶんまた別の問題です。
以前も、AIと人格にまつわるエッセイ風文章を書いています。こんなにもAIと人間の境界線や線引き、越えるべきでない一線が気になるのは、AIの勢力拡大に恐れをなしつつも、「人間性」がどこにあるのかを探し続けているからかもしれないと思います。