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266 味は場所で変わるのか?

孤独、呑み鉄、いろいろあるけれど

 たとえば「孤独のグルメ」。たとえば「町中華で飲ろうぜ」。たとえば「呑み鉄本線日本旅」。今朝もやっていた「ぶらり途中下車の旅」。どこかへ行ってなにかを食べる飲む。そこでしか食べられないものなら、そりゃ、行くしかない。いや、いまの時代、取り寄せられる。あるいは近隣の店のメニューになっていたりもする。アンテナショップもある。ふるさと納税の返礼品ばかりではなく、地域の経済のために定期的に特産物を購入している人もいるだろう。
 それでも、「ここで食べるからうまいんだ」「ここで飲むからうまいんだ」と思わず言ってしまう。
 場所が変われば、味は変わるのか?
 実際問題として、思い浮かぶのは「水」と「空気」だ。こればかりは、現地でなければ手に入らない。いい水を使える環境にあれば、味は大きく変わることが想像できる。空気も同様だ。いい空気の中では味は変わる。香りも変わる。
 あるとき、地方へ取材に行ったら、野焼きの時期でずっといぶされているような煙たさがあった。またある時は、肥料を撒いているのだろうか、独特の香りが空気に含まれていて深呼吸しにくかった。いや、悪い例を挙げてはいけないけれど、時と場合によっては、その場所での飲食はかえってマイナスってこともあるかもしれない。

落ち着かないとね

 いずれにせよ、私としては、落ち着ける場所、リラックスできる場所でなければ、うかうか飲食できない。つまり「ここ、妙に落ち着くよね」的な空間であれば、その飲食はだいたい問題なくいい印象になっている気がする。
 ある店は、飲食店だが猫が数匹いて、店の中でそれぞれの好きな場所を占領していた。ネットでは名店っぽく紹介されていたが、私は二度と行かないし、そのとき食べた味も、どうもよくわからなかった。じっと、猫たちに見られながら、こっちも猫を見ながら食べている。猫好きであれば抵抗はないのだろうか。私は犬好きだが、店内に犬がいたら、やっぱり落ち着かない。
 地元の人たちで盛り上がっている店に入ったこともあった。注文するのもひと苦労で、早々に退散した。もちろん、どんなところへ行ってもたちまち溶け込めるような人なら、むしろそういう店こそ行きたい場所なのだろう。私はそれほど社交的ではないから、居心地は悪かった。
 どこへ行ったとしても、落ち着いて味わえる環境でなければ、私は楽しめない。かといって、取り澄ました上品すぎる環境もまた、緊張してしまう。ある店はかなり緊張するのだが、たまたま別館に案内されて、たまたま客もほかにいなかったので、ゆっくり楽しめた。助かるなあ、そういうとき。
 取材では現地の人たちが店を予約しておいてくれたりもする。これもまた緊張する。話はどうしたって取材の延長になりがちで、食べていてもメモを取ったりしてしまう。騒がしいので録音はあまり役に立たない。しかもあとでメモを読み返しても、よくわからない。酔っ払いの字である。なにを食べたかは記憶しているものの、味までは覚えていない。まずくはなかったはずである、としか言えない。
 そうなると「我が家が一番」になってしまう。こうして文字にしてみると、実につまらないヤツだと我ながら思う。
 こんな自分でも、忘れられない味はある。若かりし頃、妻と旅行へ行った。いろいろ行ったが、どこで食べてもおいしかった。妻の故郷もとてもよかった。あとは北海道、大阪、福岡、愛媛は印象に残っている。横浜は長く住んだので伊勢佐木町、元町、中華街もよかった。中華街はすっかり変わってしまったらしいけど。「あの味、もう一度」とこうして記していると思うぐらいには記憶に残っている。たまたまだろうけど。そうだ、あとシカゴで食べたTボーンステーキ。ニューヨークのリトルイタリーで食べたパスタは忘れられない。この場合は緊張感がいいスパイスになっていた。どっちもマフィアやギャングのイメージで、映画の中にいるような気分だった。
 やっぱり場所と味は記憶に結びついてしまっているようだ。あー、お腹すいてきた。
 ※本日、家のルーターを交換する作業に忙殺されて、絵を描く時間を失ってしまった……。
 
 
 

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