216 好きと嫌いの間
恋愛話とは限らない
ドラマでは、タテ軸、ヨコ軸、斜めといった人間関係でストーリーを動かすことになる。中でも「好きか嫌いか」は、恋愛話に限らず、人間関係の基本的な構図となるから、どの軸にもそれとなく、散りばめられている。
ドラマが動くとき、好きだった人が嫌いになり、嫌いだった人が好きになる。そこまで極端ではないとしても、好きと嫌いの間を揺れ動くことになる。その曖昧な状況をわかりやすくするために、この「好き嫌い」の圏外にいる人物を配置することも多い。その人たちの誤解や邪推は、当人たちの「好き嫌い」をより明確にするために発揮される。
それはサスペンスでもヒーローものでも格闘系でも濃淡の違いはあるとしても共通している。
極端に言ってしまうと、人は「好き嫌い」で自分の世界を創り出している。たとえば、中華料理の好きな人とラーメン好きは、イコールではない。ラーメンはラーメンというジャンルがあり、その中にもさまざまな系統に分かれているから、一概に同じ仲間に入れてしまうのは危険だ。
二郎系が好きな人もいれば蒙古系が好きな人もいるし、いわゆる中華そばが好きな人もいれば、ご当地のラーメンが好きな人もいる。この濃淡は、単純には割り切れない。
そのため、「好き嫌い」世界は、自分でもわからなくなっていくことが多い。気付いていないことさえある。だから、圏外の人たちによるアプローチが必要になる。他者による評価、それは半分は当たっていて半分は間違っているのだが、それでも構わない。
そして「ああ、だから好きだったんだ」とか「やっぱり、あれは嫌いだ」と自覚する瞬間に主人公は行き当たる。
圏外の人たち
ドラマにおいては常にこの「圏外の人たち」が存在しているので、もちろん圏外だった人がそうではなくなることもあり得るけれど、基本、配役などを見れば誰が圏外かはだいたいわかるようになっている。
現実には残念ながらそういう仕組みはないので、自分で誰が圏外かをなんとなく区別することになる。
では、この圏外の人たちとは、いったいなんだろう。
圏外の人たちは「好き嫌い」の判定を保留されている。その結果、基本的に周辺に存在していても問題はない、つまりどちらかといえば「好き」かもしれないし、「嫌いではない」かもしれないが、いまどっちかに決めなければならない存在ではない。
「だから、嫌いなのよ」と思うことがあったとしても、二度と話をしたくないほどの嫌いではない。それに、いまどうしても好きか嫌いかを決めなければならない事態ではないし、たぶん、そんな事態は永遠にやって来ない。災害時にはお互いに協力し合えるかもしれないけれど、平時では距離を置いていられるような存在だ。
ドラマとしては「意外性」というか「斜めの線」みたいなものとして、この圏外の人がある事件を通して、俄然、主人公の圏内へ飛び込んでくる。ところが現実には、こうしたことは滅多に発生しない。
そもそも私たちは、誰が圏内で誰が圏外かを明確に区別しているわけではないから。いま圏内にいる人は最初から圏内だったかのような錯覚に陥ることだってある。
「ちがうよ」と圏外の別の誰かに言われてはじめて「そうだっけ」と思い出すこともあるだろう。
このふわっとした人間関係によって、社会の大半がつながっている。好き嫌いを決めなくてもいい人たちに囲まれていることで、強烈なドラマは生まれないけれど、穏やかな日常を保てるかもしれない。確信はないけれど。
ハラスメントの話題は尽きない。どうも、こうしたふわっとした関係ではいられない瞬間が日常にも訪れて、その結果、ハラスメントとして表出することもあるのではないだろうか。
よく、地方都市では人間関係が難しいと言われたり、地方の政治や行政でハラスメントが横行するように見えるのも、このふわっとした関係の築き方で「圏外の人たち」が極端に少ないせいかもしれない。すべてが身内のように見えてしまう。すべてが「好き嫌い」判定の対象に見えてしまうとすれば、それはけっこうシンドイかなあ、と想像したりもする。
ドラマ「季節のない街」を見ていて、ドラマの舞台となっている仮設住宅にいる人たちの中では、この「圏外」の人はあまり多くないようなので、そこでうまく生きるのは人によってはかなり辛いかもしれない。そして、そこに見える人間関係には、昭和を思わせるノスタルジーも含まれる。昭和は圏外の区別があまりなかったと同時に、好き嫌い判定をいまほど強く求める人も少なかったような気がしないでもない。曖昧でもよかったのだ。
いまの時代、圏内と圏外の区別は、SNS、メール、LINE、チャット、マッチングアプリといったネットサービスによって具体的に示される。プライバシーを重視した社会になったために、なにをどこまで共有できるかが個人にとって大切な判断になった。トラブルを避けるために、圏内に入れる人を慎重に選ばなければならない。
とはいえ、この圏内か圏外かという区別は、ほぼほぼ「思い込み」によるバーチャールなもので、次に問題になるのは「好き嫌い」以前に存在しているこの「思い込み」だが、それについてはまた別の機会に考えよう。
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