188 解釈と角度
切り口を探す
雑誌関係の仕事をしていたころ、毎日「切り口」を探していた。
『源氏物語 A・ウェイリー版』(紫式部著、アーサー・ウェイリー訳、毬矢まりえ訳、森山恵訳)を読んでいるのだが、ようやく1巻目を終わり、2巻へ入った。1巻目の末尾に訳者による経緯が丁寧に書かれていた。その中に、英語版を作ったウェイリーの言葉があった。11年かけて源氏物語を英語訳した彼は「翻訳者の役割は作曲家に対する演奏家のようなものだ」と語っていたという。
演奏家は、曲を解釈して演奏する。その解釈の仕方は演奏家それぞれに特徴がある。確かに、誰が翻訳するかによって印象を大きく変えることは多い。日本語で言えば一人称を「ぼく、私、おれ、わたし、あたし」などからどれを選ぶのかだけで変わってしまう。
そしてこの英語訳を再び日本語へ翻訳したのは、俳人で評論家である毬矢まりえ、詩人の森山恵であった。
まず原曲としての「源氏物語」があり、語学に優れていたウェイリー(大英博物館の学芸員を経て翻訳家、中国語、日本語ほか数ヵ国語に精通)によって英文へ訳された。それを再び俳人・詩人によって日本語に訳された。
同じ題材をその時代の才人によって咀嚼して再現することで、新たな解釈が生まれる。それを私たちは楽しむのである。
このために、必要な才能がまさに切り口そのものだ。才能をぶつけることで、新たな視点、新たな解釈が生まれる可能性がある。
これをもし漫画家がやったらどうなるか、お笑い芸人がやったらどうなるか、といったことを考えていくことで、切り口を探すのである。演奏家で言えば、ピアニストとバイオリニストでは解釈は違うだろう。その曲をどんな楽器の名人が演奏するかによって、まるで印象は変わるだろう。
編集者は黒子なので、もちろん自分自身にその役割を持たせることも不可能ではないけれど、そうなると多くの時間をそこだけに費やすことになるため、できれば切り口を見つけて、そこは誰かに任せた方がいい。誰を起用するか。どんな才能とぶつけて化学反応を起こさせるのか。それを考える。
なかなかいい切り口は見つからない。だからいつも探し続けるしかない。
新しい角度を見つける
物体をどこから見るか。どこに光を当てるか。それは、人によって違うはずだ。見飽きた物でも、見方を変えるだけで新鮮になることは多い。まったく新しい物を生み出すことも大切だけど、新しい角度を見つけることも同じように大切なことだ。
SNSによって、実は、私たちは日頃から新しい角度を見つけ続けている。世界中の人たちがそれぞれの角度で見ている。同じ事象に多様な意見が交わされる。AIによって、それを箇条書きに整理できる。いわば角度のマップのようなものを、私たちは簡単に手に入れることができる。
それらを眺めた上で、さらに新しい角度を見つける。あるいは、すでに明らかになった角度からものを見るのにふさわしい人を見つけることができるかもしれない。
私と同じ意見を述べているとしても、それを発言しているのが作家、料理研究家、漫画家、アーティスト、ミュージシャン、田舎のおじさん、下町のおばさん、地下アイドルだったらどうだろうか? 受け止める側は、「誰が」によって受け止める質と量が変わる。
親しい人から言われたいことと言われたくないことがあるのと同じように、切り口、角度を見つけたところで、それを誰を通して受け取るかは、大きな違いを生む。
つまり、切り口、角度、解釈というものは、それを発見したことよりも、どういう人を通してそれが述べられるかによって、社会の反応は変わってしまうのである。そこにおもしろさがあるんだなあ。
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