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232 昔の人は賢いか

神野守さんに紹介いただきました

 前回の231の記事が神野守さんに紹介いただきました。

 神野さんは、小説を主に投稿されています。

 どうなるのか、展開が気になりますね。
 ちなみにXはこちら。Xをnoteに埋め込むとタイムラインがばーっと出ちゃうので、リンクだけにさせていただきました。
 このように、そこはかとない関係がネットでは生まれます。目に見えて、なおかつ指で覚える的な関係がネット社会では日々、生まれては消えていくのですね。とくに、私としては肉体の一部としての指が感覚器官としてとても重要な気がします。触っているのはデバイスに過ぎませんが、その先に誰かがいる。こうした世界は、恐らく人類史上でもかつてなかったことでしょう。今日は敬体で書いております。このまま行きます。

そんなにすぐ短歌が出てくるか?

 さて、私たちは人類がかつてない日常を送っているわけなんですが、どうも、昔の人たちはみな天才というか、とてつもなく賢かったのではないか、と思えてしまうことがあります。
 たとえば、『源氏物語 A・ウェイリー版』(紫式部著、アーサー・ウェイリー訳、毬矢まりえ訳、森山恵訳)を読んでいますが、なにかと「手紙」をやり取りする。その筆の運びで人間性を表すので、優美な文字を書けなければなりません。手紙には「歌(和歌)」を添えたりもします。歌には、さらに以前に出ていて定番となっている歌(元歌)があり、その引用があったり、ひとつの言葉を複数の意味で使うといった掛詞もある。そういうものを、ふと思った人へメッセージを送るたびに新たに書き記すのです。
 平安時代の貴族ってそれだけでもすごいな、と思うわけですが、しかも神や仏についての知識は深く(日々の行事として日常化しています)、漢詩についても学んでいないと恥ずかしい。大河ドラマ「光る君へ」では、道長からの短歌に、まひる(のちの紫式部)が漢詩で返すシーンがあり、古文で学生時代に苦労した者としては「すげえな」としか思えません。辞書使わないで、あるいは変換機能を使わないでなにかを書くなんて……。
 いまの時代なら俵万智さんぐらいのレベルでなければ、そんなにさらっと歌を詠んでしまうなんて、できないですよ。つまり千人にひとりもいない。
 もっとも、Xやこのnoteのように、毎日、たくさんの言葉が行き交っている状況を平安時代の人たちが見れば、卒倒することでしょう。渋谷のスクランブル交差点だけでも腰が抜けるでしょう。私だってあそこはあまり好きじゃないので地下通路を使ってしまいますけど。

バカ・プルーフの時代

 私の社会人時代、若くして直面したのがフールプルーフ(Fool Proof)でした。IT社会のいまでは常識でしょう。当時はまだITではなく、オフコンとかジアゾ式コピー機(青焼き)の時代でしたが、すでに私たちの間で口は悪いのですが「バカ・プルーフ」と呼んでいました。
「そんなこと、するやついない!」と主張する人たちも大勢いましたが、どんな人でも一瞬、バカになってしまうのです。いわば、アクセルとブレーキを踏み間違える。するはずのないことをしてしまう。そんなバカになったときの危険度を下げるための工夫が必要だと、その頃から気付いていたわけです。
「間違った使い方をする方が悪い」と強気だった人たちも、しだいに「念のために」と思いはじめるようになる。
 たとえば私の場合は出版関係なので、校正、校閲に関するバカ・プルーフをかなり真剣に対応していました。校正も多人数が関わると、せっかく正しく直したところをまた誰かが元の間違いに戻してしまったりする。広告を間違いなく掲載するためにもいろいろな安全管理が必要でした。最新の広告を入れるはずが昨年の広告が入ってしまう、といったことを防ぐためです。
 残念ながら、いまだにアクセルとブレーキの踏み間違いは発生します。大事なデータを消す。送っちゃいけない人にメールを送信しちゃう。使っちゃいけない言葉を公的な場面で使っちゃう。それを完全に取り除く方法はありそうですが、そのための費用をユーザーは負担してくれないでしょう。「だって、おれ、そんなことしないもん」と。
 いや、するんですよ、実際。人がバカになるのは確率の問題です。
 ある意味で、消費者保護の発展によって、いろいろな製品にバカ・プルーフが施されていき、私たちは安全で安心な日常を手に入れたのです。それは裏を返せば、賢くなくてもちゃんと生きていける社会ってことです。
 そういう社会とはほど遠い時代を生きた人たちは、自分を守ることについて、いま以上に真剣だったでしょうし、命がけだったでしょう。失敗すればあっさり死んでしまう。だって、江戸時代なんて、侍は刀を差して歩いていたんですよ。抜いたら誰か死ぬんです。街を歩くだけでも命がけなんです。そこを生き抜くための賢さを身につけなければ、ただでさえ短い寿命があっという間に終わってしまう。
 私たちはいまの生活を手に入れました。大勢の頭のいい先人たちのおかげです。その一方、いまも日々、新しい危険性は生まれています。ニュースではそうした事例で溢れています。恐らく、昔の人のような頭の使い方ではないかもしれないけれど、短歌はすっと出て来ないし、字もぜんぜん上手じゃないし、誤字脱字だらけだとしても、きっとほかの部分で危機回避のための計算を必死にしているのではないか。同時に、危機を感じるセンサーは鈍くなっているのではないか。この両方の疑いを感じてしまいます。
 法律でヘルメットなしでいいから、と被らないって、どう思います? みたいなことです。危険だと思えば被るべきでしょう。コロナ禍のマスクの問題もそうでしたね。いまを生きるための賢さは、自分で手に入れないといけない。その点は、昔も今も同じなのでしょう。

あまり進展なし。


 

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