293 これ以上よくなる世界の終わり
なんだか冷めた感覚
20世紀の終わりに、世紀末の退廃的な雰囲気があったのかと問われると、どうも記憶にない。退廃は、おそらく18世紀頃からずっと続く文化的なひとつのジャンルなのではないだろうか。つまり、私たちはずっと退廃していて、退廃の上に暮らしている。
だから、いまさらながらだけど、いま私たちは「これ以上よくなる」と信じる世界の終わりを経験し続けているのかもしれない。もちろん、それは「人による」。個人的に常に情熱を持ち未来に向かって精力的に取り組んでいる人もいる。そのことを否定するわけではない。ただ、正直、そうやっている人たちの多く(とくにXなどで刺激的な活動をしているビジネス系の人たち)は、金儲けのうまい退廃的な人間に見えてしまう。
見えてしまうんだからしょうがない。
それを冷めた目、冷めた感覚と言うのかもしれないけれど、「もっとがんばりましょうよ!」とか「未来があるじゃないですか」みたいなセリフを言える人の多くは、こちらを焚きつけることによって利益を得られる人だから、まったくもって資本主義というものは底が浅くてだだっ広いお座敷みたいなところだなあ、と思ったりもする。
これまで私自身、冷めた感じでnoteを書いている。
内田樹氏のブログを読んで
そして今日、かねがねその言動に注目してきた内田樹氏が更新したこの記事を読んだ。
内田氏自身がXでこうつぶやいている。
読んでみると、腹が立つことはなにも書いていない。むしろよりくっきりとした部分もあった。性善説で組み立てられたシステムは簡単に破壊されてしまうこと。立法と行政の件。大人になることを拒絶した有権者の群れ。そしてこの傾向は日本に限ったことではないし、恐らく民主主義に限ったことでもない。
それは、一種の脆弱さであり、脆弱なままでもかまわないとする考え方であり、脆弱なものを脆弱なまま扱うことができる技術の発達でもある。
もちろん、誰もが強靱になる必要はそもそもないのであって、脆弱な人にもそれぞれ理由があるわけで、一律に否定するなんて軍国主義的で封建的な世界に戻る必要はない。強靱さが唯一の支配力だった時代は終わっている。
さらに、以前に読んだ話でショックだったのは、とてもここでは具体的には書けないけれど、現在「素晴らしいこと」として推進されているさまざまなことによって、自分たちの未来が破壊されていくと主張している人たちがいることだろう。それも知識人を含めそれなりに多数存在している。
変わらなくていい、脆弱なままでもいい、というその感覚はそのまま、誤解していてもいい、曲解したままでもいい、となっていくのだろうか。「反対を主張する人は反対なままでいいんですよ」と言えるのだろうか。そういう世の中はすばらしい未来だろうか。
そして自分もまた、このままでいいと言われたら、きっとうれしいけれど、同時に「ほかの人もこのままでいいので、それを受け入れてね」と言われたら……。
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