365 大きな構造、小さな発想
今月はずっと考えている
いま取り組んでいる作品がある。今月はとくに時間をできるだけそのためだけに使っている。すでに書きはじめてしまっている。いや、実は一度、最後まで書いていて未発表の作品だ。自分にとって、そこに書かれた内容よりは、その根底にあるものがより重要に感じられて、全部、バラバラにして書き直している。まったく別のストーリーになっている。使える部分は使っている。
ただ、ここに来て、もっと大きな構造に気付いてしまったので、そこはよく考えないといけないね、と自分に言い聞かせている。慎重に。
ドラマとして、いくつかの重要な場面を考えていて、それはぜひ表現したい。一方で、全体を突き動かすエネルギーとしてもっと大きな構造をちゃんと描きたい。
これまで、さまざまなシーンについては発想してきたんだけど、自分にとってはそのアイデアはとても大切なんだけど、むしろ全体から見ればそれは小さな存在だと気付いた。
大きな構造はそれをそのままレポートのように書き込むことは絶対に無い。ただ終盤には読者も大きな構造の存在に触れることになる。そうでなければ登場人物たちは浮かばれない。とくに命を落とした者たちは。
この世の一面を知る
私たちはいまこの時代に生きていて、ニュースを注意深く見つめ、識者たちの発言や書いたものを読んでいるから、大概のことはわかっているつもりになっている。正直、わかったつもりでいないとやってられない。
だけど、それはあくまで「つもり」だ。人生は短いので、その深いところまですべて知り尽くす時間は与えられていない。
太平洋戦争の時代に生きた人、高度成長期に生きた人、バブル期に生きた人、平成不況や就職氷河期の時代に生きた人、そしていま令和を生きている人。それぞれに、その時代についてさまざまなヒントは提示されているけれど、すべてを知り尽くせるわけではない。
そのため映画「猿の惑星」(1968年版)のラストシーンのようなことが、私たちにも起こるかもしれない。
そうした構造に比べると、私なんぞの考える発想はいかにもちっぽけである。人の出会いのシーンの演出、登場人物の苦悩をわかりやすく表現するための工夫といったことは、それぞれにアイデアを伴う。よりおもしろく、よりわかりやすくするために、発想はいくらあっても足りない。
ただ、それは大きな構造あってのことだ。
その作品で触れることのできる大きな構造は、なにか。登場人物たちの行動できる範囲、触れることのできる範囲はどこまでか。
そういえば、ドラマ「三体」に夢中になっていたときにも、それをぼんやり考えていた。
いまその記事をさっと目を通してみて、そこでも「猿の惑星」のことを書いていたことに気付いた。ふふふ、なんだそれ、と思う。ま、自分の思考の範囲ってそんなもの。似たルートを辿れば似た場面を想起し、似たようなことを言う。
実はこのときに、そのいま取り組んでいる作品の元になった作品に隠されていた構造に気付いたのだ。自分はなんにもわかっていなかった。この作品で描くべきはそっちじゃなかった、と気付いた。
だから、元作品では脇役だった者の視点を使うことにした。そうしないと、構造に触れるチャンスはないからだ。
私は、根本的に組織を描くのは好きじゃない。組織の中でがんばっている人を描いている警察小説は、それほど好きじゃない。ドラマとしてはありだけど、自分はそういう分野には手を出さないつもりだった。
それでも、今回はしょうがない。ある程度の立場にいなければ構造に気付くことさえないし、それを確かめることなどムリだからだ。もちろん、だからといって、ステレオタイプな人物を書きたいわけではない。このあたりは、まだ工夫も必要だ。
10月末までに完成させるはずの作品だが、いまのところ半分も出来ていないので、スケジュールは考え直すしかない。
ところで、AIにいろいろ相談しながらこうした構図を明確にしていく作業は、とてもおもしろい。AIは私の知る限り、嫌なやつだけど、吐き出してくる言葉にそれなりのクセがあって、それを真に受けず、検証しながら使っている。検証できないことはAIがいくら言い切っていても、信じない。信じられないやつと組んで仕事するって、なんだかおもしろい。