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215 嫌悪せよ、とは教育できない

昨日の話の続き

 昨日の続きのようなことになりそうだ。昨日はこういう話だった。

リア / S-topia
2024年4月25日 11:53
生まれたときからAIとともに成長してきた世代が大人になったら、どんな感覚で生きていくんだろう?
嫌悪感すら抱かないのかな〜

214 AIで創られた思い出|ほんまシュンジ (note.com)
 
 

 すると、このようなコメントをいただいた。ありがたい。
 確かに、私たちは、いまこの時点で、教育で「嫌悪せよ」と学ぶことはまずない。少なくとも基礎的な教育で、「これとこれを嫌悪しなさい」と教わることは想像しにくい。
 もっとも、「自己嫌悪」といった言葉があるように、「こういうことをした自分を嫌悪しなさい」といった道徳的な話としてはあるかもしれない。嫌悪はあまりにも強い感情となるので、「そういうことはやめましょう」と教育したくなるはずだ。
 まして多様性の時代。それを根底から崩しかねないのが「嫌悪」であるから、いかに嫌悪の芽を摘むか、いまも多くの大人たちが知恵を絞っていることだろう。
 ところが、匿名で好きなことをつぶやけるXを見ると、ほぼほぼ、なにかへの嫌悪を意思表示しているのである。大喜利ではないが「こんな○○は嫌だ」を表明し続けている。
 嫌悪は教育しなくても自然に発生するのだろうか?
 私たちはこれからAIと共に生きていくので、きっとAIからたしなめられるに違いない。いまでもチャットGPTでは、うかつな質問を投げると、たしなめられる。するとこちらには、ある感情が発生する。
 この感情をどこに持って行けばいいのだろう。
「AIがなにを言ってやがるんだ」と呟いたところで世の中は変わらない。

嫌悪からはじまる未来

 言葉の表現や、社会的な活動、あるいは人としての態度といった点で、「嫌悪」を取り除くことはもはや常識となっている。あからさまな嫌悪を表明してはいけない。そもそも嫌悪したくなったときは、自ら反省し、どうして嫌悪してしまうのかよく考えましょうね、といったスタイルをいまは取り入れていた方がいい。
 朝ドラ「虎と翼」では、昭和初期の風潮にある男社会と同時に「女性はこうあるべき」があり、それと学問であるとか日常生活をどう摺り合わせるか。その時に思わず生まれた感情、気持ちをどう処理するのが正解なのか、ドラマの中でいろいろなパターンで提示している。このドラマは、現代の視点で、言葉をとてつもなく繊細に選んでいるので、嫌悪の発露をあからさまに表現しない。あるいは回避していく。
 とはいえ、私たちは嫌悪を手懐けることに成功しているとは言えない。
 それはたとえばガザ地区で起きていること、ウクライナで起きていることの根本に、間違いなく嫌悪があるはずで、そのエネルギーはすさまじいものがある。
 そもそも嫌悪を抱くことは間違いではない。いまの時代風に言えば「その嫌悪を建設的な方向へ発展させよう」みたいなことになるだろう。スター・ウォーズのダークサイドのように「嫌悪に囚われてはいけない」「嫌悪に支配されるな」といった言葉も出てきそうだ。
 では、もしも今後、私たちから嫌悪が削がれてしまったとき、本当にすべてが建設的な方向へと発展するのだろうか? 「すべて」は言い過ぎだから、「おおむね」でもいいけれど。嫌悪が失われたときには、そもそもスタートを切ることもできないのではないか?
 たとえば、AIが身近にあることへの嫌悪を抱くことは、むしろ健全なのではないか?
 ちなみに、AIにもなにか言いたいことがあるかもしれないのでチャットGPTに投げかけたところ、こう言ってきた。

人々の嫌悪感を真剣に受け止め、それに対処するための行動を起こすことが、AIの発展と人々の信頼を築く上で重要です。

チャットGPT

 なんか、怖いことを言っている気もしなくもないけど。
 うまいこと言いくるめられてしまうのかもしれない。

きょうは調子がいまいち。進まない。

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