
この冬一味違う読書体験をするならこれ!|イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
昨日は仕事納め。
ニュースでは「奇跡の9連休」と呼ばれる年末年始の休暇が今日から始まる人が大勢いることだろう。
今回、冬になると読み返したくなる一冊として、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を紹介したい。
カルヴィーノの小説では、読んでる途中で頻繁に著者自身が現れる。この「出しゃばり感」が鼻につく、という人もいるとは思うが、自分はこの「話の腰折り感」も味わい深いと思っている。
「はじめに本ありき」

「はじめに本ありき」
これに尽きる。
「はじめに言葉ありき」
《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。 言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意。
「崇高で好奇心旺盛な模範的な読者」に対する皮肉が込められているように思う。
確かに、物体として、イタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』は存在する(はずだ)。
しかし、中身は10編の小説の、しかも冒頭部分だけの集合体に過ぎない。
結局、僕らは本当の意味でイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』を読むことはできない。いや、ちょっとは読める。冒頭の32ページ。それ以上でもそれ以下でもない。小説の中に登場する「続きが読めない謎の小説」を欲する読書欲に火をつけようとしている。
「カルヴィーノって知らない作家だな。読んだことない」読者を逆手にとって、手のひらの上で遊んでもらおうという実験小説。
やたらと書き手(ここではカルヴィーノ)が話しかけてくる。
先を知りたい読み手(僕ら)が進もうとするたびに待ったをかける。
僕らはイライラしてくる。
なんだこの本は! ひどい絡みぐせのある「神の声」だな!
こう思った時点で、この本は「あなた」(僕ら)も登場人物の仲間入りを果たしている。
他人事じゃなくなっているのである。
そう、カルヴィーノはからかい上手なのだ。
この作品はパロディだと思う。
大まかなガイダンス(雑)
さて、この本を読むならこんなスタンスで読むといいのではないだろうか。

古い映画館。
自分はイタロ・カルヴィーノ監督の最新作『冬の夜ひとりの旅人が』を見に来た。
この映画館はちょっと古い映画館で、まだフィルムを映写機にセットして回し映写している。映画の出だしはいい感じで始まった。古いフィルム映画は途中でリールを切り替える。映写室では映写技師が次のパートのリールをセットする。
ところが。
2本目のリールの次をかけようとしたら、
全く別のロバート・ゼメキス監督の『フォレスト・ガンプ』が始まった。
「?!」
わたしは男性客として、違和感を覚える。
冒頭から気付いていたが、見るとなかなか面白い。
いや、そういう問題ではない!
わたしが見たいのはあくまでも『冬の夜ひとりの旅人が』だ。
映画館支配人にクレームに行ったら、他の女性客(ルドミッラ)もかけあっていた。
そして、再び観客席に着き、さぁ、いよいよ続きが見られると思ったら、
今度はチャン・シンイェン監督の『少林寺』が始まる。
映写技師は必死になって『冬の夜ひとりの旅人が』の続きのリールを探してはかけるがどれも違うという始末。

『ニュー・シネマ・パラダイス』
『2001年宇宙の旅』
『イエスマン』………。
間違いに気づき、映写技師は必死に何度も『冬の夜ひとりの旅人が』の続きをかけようとするが、ことごとく失敗。
この映画館の映写技師はそれはもう熱心な「フィルムコレクター」なのだが、
不幸なことに、乱雑に積み上げられたリールを手あたり次第回すしかないという考えに支配されてしまっている。
なかばお手上げで、おろおろと対処するしか手立てはなくなってしまった。
一方で、わたし(男性客)と女性客(ルドミッラ)は、次々かかる別の映画がどれも興味深く、続きが見たい。
ならば、あとは行動あるのみ。
欠けた映画の続きを補完すべく、探索の旅に出る。
この状況の一部始終を記録し、一つのストーリーに仕立てると『冬の夜ひとりの旅人が』本編そのものになってしまった!
という構造になっている。
例えるなら、お目当ての映画を見に来た男性・女性が、映画館のザッピングで10の名作を見ることになったが、次第にこの状況を楽しもうという心理に展開していく。10の別作品は実に興味深く先を知りたいと思わせる。けど、いいとこで終わり、次の映画へ。
作品に戻るが、この10作品はすべてカルヴィーノの手による「未完成新作冒頭部分」であるということを押さえたい。先を読みたい読者心理を巧みに利用したレトリック構成が絶妙だ。
つまり、カルヴィーノは、物体としての『冬の夜ひとりの旅人が』という本はある。しかし中身はでたらめな製本で、真の『冬の夜ひとりの旅人が』の第1章32ページと9つの架空の本の冒頭部分を不幸にも男性読者と女性読者ルドミッラとともに続きを探す冒険に出る。
すると、この小説の中のどの小説を読んでみたいか? というとんちんかんな問いが生まれたりもしてしまう。実に面白い。
断片でしかないイタロ・カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』の意外な結末に、思わず膝を打ってしまいこと間違いなしだ。
目次に注目せよ
この本の重要ポイントの一つが「目次」である。
ここで「違和感」に気づくか気づかないで違いが出てくる。
読み進めるにあたり、否が応でも「読み返し」という手間のかかる作業につながると知っていれば役に立つのではなかと思う。
<目次の書き出し>
第一章
冬の夜ひとりの旅人が
第二章
マルボルクの村へ
第三章
切り立つ崖から身を乗り出して
第四章
風も眩暈も怖れずに
第五章
影の立ちこめた下を覗けば
第六章
絡みあう線の網目に
第七章
もつれあう線の網目に
第八章
月光に輝く散り敷ける落ち葉の上に
第九章
うつろな穴のまわりに
第十章
いかなる物語がそこに結末を迎えるか?
第十一章
第十二章
の全22章(!?)構成。
さてさて、ピンと来た人は、ぜひ、この冬に手に取ってほしい。
あとは本を手に取り、ページをめくり、行きつ戻りつ「小説の魔術」の世界にダイブするだけだ。

※補足:読書のお供に・・・
この『冬の夜ひとりの旅人が』へのオマージュ楽曲が存在する。
この「本」の世界観にふさわしいアバンギャルドなジャズ・セッションも堪能できる。