見出し画像

これはラジオリスナーの「ふつおた」|柴崎友香『百年と一日』



はじめに


今日も昨日の明日だった。

今年の梅雨は雨らしい雨の記憶はなく、
盛夏のいまも、息苦しい熱気に毎日うんざりしている。

突然、平積みになっている幾棟もの「超高層本タワー」から、崩れないように一冊の本を引っこ抜く。

買ってから相当寝かしていた柴崎友香の『百年と一日』
この小説は、いまなら読める、と思い、引っ張り出した。

見事な「発酵」を経た『熟成本』


ページをめくると思いもよらぬカタルシスを感じる小品の連続だった。
この手合いの短編集には、久しく出会っていなかった気がする。

唐突に、
前触れも前触れもなく物語が始まり、
急にブツっと終わる。

この感覚、レイモンド・カーヴァーに似ている。
あるいは、岸政彦編『東京の生活史』のフィクション版ショートショートのような味わいもある。
短かさにちょっとした企みを忍ばせ、
読む人の心に「何か」をひとつ、置いて立ち去るクールさが気に入った。

この本に収録されている33の短編は、それぞれの文体が微妙に違っている。
同じ著者だから、驚くほどの大きな違いはないが、この〈ほんのちょっとのズレ〉加減が、お互いの関連性を薄めたり、濃くしたりしている構造性が目を引く。

目次が物語の骨子を短い要約文章で記載しているので、最初から読まずに、ランダムに読んだ。

お気に入りの三編

角のたばこ屋は藤に覆われていて毎年見事な花が咲いたが、よく見るとそれは二本の藤が絡み合っていて、一つはある日家の前に置かれていたということを、今はだれも知らない。

角のたばこ屋の家庭の、ある「一日」に起こった「藤の植木鉢出現」と
たばこ屋の過去から現在までの「ちょっと長い時間」を描いたもの。

ラストの一文は筋肉少女帯の名曲『何処へでも行ける切手』のように深い余韻が残る。



大根の穫れない町で暮らす大根が好きなわたしは大根の栽培を試み、近所の人たちに大根料理をふるまうようになって、大根の物語を考えた。

「この国に住む人たちは、大根を食べないのだろうか」という一説から、この短編集は時間軸も長いが、空間の広さも変数に加えなければならなくなる。凝った作りだ、と思う。



兄弟は仲がいいと言われて育ち、兄は勉強をするために街を出て、弟はギターを弾き始めて有名になり、兄は居酒屋のテレビで弟を見た。

この物語の後味の良さは抜群だ。余計なものがなく、ここまで削ぎ落しても「情感」が実によく込められている。
たった7ページに、まったく違う人生(時間)を生きる兄弟の「絆の深さ」が染み入ってくる。

朝のFM局のパーソナリティーなら、思わず採用してしまうんじゃないかな。
そういえば、ポール・オースターのラジオ番組も、こんな感じだったような気がする(英語は分からないけど、ノリが)。


まとめ


どの短編も、西暦何年とかいう「現在性」が無い。あるのは、様々な人々の長い人生の「断片」と「顛末」があるだけだ。関連があるのかないのかも定かではないし、100人以上登場するキャラクターの息遣いを聴いて、いま、この作品を読んでおいて良かった、と心底思う。

買ってすぐに読まず、「読むべき時」を待っている作品があって、ちょうどいいタイミングで読むと、どんな本も名著になりそうな予感がしてならない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?