映画『ドヴラートフ』を俯瞰する #2
(この記事は #1の続きです)
レニングラードの非公式芸術サロン
第1のポイントとして、レニングラードの芸術シーンにおける作家と画家の交流について述べたい。映画『ドヴラートフ』は、1971年の11月1日から十月革命の記念日へと向かう、およそ一週間の出来事を描いている。ピョートル1世が建設したペテロパヴロフスク要塞を起源とするレニングラードは、北のヴェネチアと呼ばれ、荘厳できらびやかな街である。多くの作家や詩人たちが活躍し、ドストエフスキーの『白夜』や『罪と罰』、ゴーゴリの『外套』『鼻』といった作品の舞台として描かれた。美術分野でも、帝政時代末期に「移動派[†1]」と呼ばれるグループが活躍するなど、ロシアにおける文化の中心地であった。
その後、ソ連時代になって芸術・文化の中心地は新たな首都であるモスクワへと移り、レニングラードは一地方都市として異なる歩みを進めていくことになる。
1950年代以降になると各地で非公式芸術運動が展開されるが、モスクワでは社会主義リアリズムから派生したソッツ・アートと呼ばれるソ連版ポップ・アートが展開され、日本でも知名度があるイリヤ・カバコフやエリク・ブラートフといったコンセプチュアリズムの芸術家たちが活躍していた。彼らの活動はジャクソン・ポロック[†2]などのアメリカの現代美術から影響を受けたと考えられている。
一方、レニングラードにおける非公式芸術運動はヨーロッパ芸術文化思想の継承と発展という形をとっていった。その一つにアレクサンドル・アレフィエフらが立ち上げた「アレフィエフ・サークル」の活躍が挙げられる。彼らの中心メンバーは美術アカデミー付属中等芸術学校で学んでおり、ロシアアヴァンギャルドや構成主義と縁の深いヴフテマス(高等芸術技術工房)出身の教員から後期印象派やキュビスムといった西欧の芸術様式についての教えを受け、それを発展させていった。ちなみに、本作品にも登場する実在の画家シャローム・シュワルツもこのサークルのメンバーである。また、ブロツキーと交流があった詩人のコンスタンチン・クズミンスキーは自室を展覧会の会場や非公式芸術家たちのサロンとして提供していた。特段説明がなされていないが、本作品に登場する芸術家たちのサロンの背景には、当時のレニングラードの芸術シーンが色濃く描写されているように思われるのである。こうした、モスクワとはまた異なる潮流で非公式芸術運動は展開され、その後の彼らの在り方に大きく影響を与えているという見方ができるのかもしれない。
また、これは筆者の想像の域を出ないのであるが、ドヴラートフがスタインベックの小説を街で求めるシーンや、芸術活動の傍ら闇屋を営むダヴィッドが口にするポロック、イヴ・クラインなど、ソ連では認められていない西側の文学や現代アートも、地続きのヨーロッパからの流入(≒おもにフィンランドからの密輸)という形でレニングラードの芸術シーンに刺激を与えていたのではないだろうか。こうした歴史的背景が、本作品を観る上で欠かせない文脈だと個人的には考えている。
(#3 へ続く)
脚注:
[†1] 官立美術アカデミーの制約に反対して、国内各地で移動展覧会を開催した。
[†2] 1959年モスクワで行われたアメリカ絵画展で紹介された。
参考資料:
(文献)
・『ロシア文化事典』 / 沼野充義,望月哲夫,池田嘉郎(編集代表)/ 2019 / 丸善出版 /
——「ソ連期のアンダーグラウンド芸術(鴻野わか菜)」p.510-511
(ウェブ資料:閲覧 2020.07.01)
・Masami Suzuki's Web Site ----- Avant-ganko
——現代ロシア美術「障害としての芸術」
http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~masami/Art/trouble.htm
——ペテルブルグの芸術──美術都市と反コンセプチュアリズム
http://www2.human.niigata-u.ac.jp/~masami/Art/ArtPetrburg.htm
・Artscape
——ソヴィエト非公式芸術 https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%88%E9%9D%9E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E8%8A%B8%E8%A1%93
——ヴフテマス
https://artscape.jp/artword/index.php/ヴフテマス
・art-spb.info
—— Шолом Шварц (1929-1995)
http://art-spb.info/community/jazzmen/?action=show&id=175