「読書について」を読んで
夏休みになると、しゅくだいとして読書かんそうぶんを書かされるわけですが、そういえばそもそもなんで本を読まないといけないんだろう、とおもったので、この「読書について」という本を読むことにしました。
「読書について」というのはドイツのてつがくしゃのショーペンハウアーという人が書きました。この人についてわたしはドイツのてつがくしゃということしか知らないので、あとでしらべておきます。
わたしの読んだのは岩波文庫版なのですが、そこにはショーペンハウエルと書いてありました。
どっちがドイツ語にちかいのかわかりませんが、わたしはショーペンハウアーとよんでいるので、ここではショーペンハウアーとよぶことにします。
岩波文庫版は、「読書について」のほかに、「思索」と「著作と文体」の二作がはいっています。
まず「思索」からはじまるのですが、これはないようがいちぶ「読書について」とかぶっています。
これは大じなことなので2回いいましたということですね。
なんでかぶってるところがあるのかというと、それは本を読むことと、考えるということはつながっている、ということをいいたかったんだとおもいます。
ちなみにどこがかぶっているのかというと、「思索」の5の「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである」と、「読書について」の2の「読書は、他人にものをかんがえてもらうことである」ですね。
ショーペンハウアーは、これは大じなことだとおもったから、二作におなじことを書いたんですね。
これについては「読書について」で「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く」とつづきます。
わたしは本をいっぱい読む人は、べんきょうが大好きでものを考えるのが好きな人たちなんだなあとおもっていたので、びっくりしました。
だからといって、本を読まないというのも、そもそも考えることをしなくなりそうなので、それはそれでもんだいがあるなとおもいます。
ショーペンハウアーはきっと、本を読んだら、作者はなにをいいたかったんだろうかとか、その本に書かれていることを、わたしたちのせいかつにどう生かせばいいんだろうかとか、そういうことを考えろといいたかったんだとおもいます。
でも、がんばって考えても、ほかの人が書いた本を読んだときに、自分で考えたのよりもうまいことまとまってるのをみるとがっかりしてしまうとおもいます。
けれど、自分で考えてだしたことは、本に書いてあることよりも100ばいもまさるんだ、って「思索」の4に書いてありました。
うまくまとめることよりも、まず自分で考えることが大じなんですね。
でもそうやって考えたことも、どんなによいことであっても、書いておかないとわすれてしまうとも書いてありました。
夏休みのしゅくだいとして読書かんそうぶんを書かせるのも、読んだこと、そして読んでかんじたことを わすれないようにするためなんですね。
でもなんで読書かんそうぶんを書くのか、先生はおしえてくれませんでした。
先生はショーペンハウアーを読んだことがないのかなあとおもいましたが、読むには読んだけど書いておかなかったせいで、わすれてしまったのかもしれません。
ここでは「なんで本を読むのか」をちゅうしんにしているので、「著作と文体」については、かるくふれるだけにします。
そういえば「著作と文体」でショーペンハウアーがドイツ語のみだれについての話をしていましたが、ドイツ語のことはよくわかりません。
ただショーペンハウアーはすごいおこってました。ここでいいたかったことは、ことばをきちんとつかわないと、きちんと考えることができなくなるぞ、ということだとおもいます。
じつはこれ、あとがきのうけうりなんですが。
ちなみにこの三作をとおして、「あたらしい本よりも、こてん読め」といってるけど、よく考えたらいまでこそショーペンハウアーはこてんになっていますが、ショーペンハウアーが生きていたときのことを考えると、「よく自分のことをたなにあげてこんなことがいえるなあ」とおもってしまいました。
もしショーペンハウアーがわたしのお父さんだったらめんどうくさそうです。
この本を読んで、ただばくぜんと本を読むのではなく、読んだときにどうおもったのかを考えながら読まなければいけない、とおもいました。
あと、いくらにんきがあるからといって、それはいい本とはかぎらないから、にんきがあるからといってむやみに読んではいけない、なぜならば、本を読むじかんにはかぎりがあるからだ、とも書いてありました。
わたしのばあい、この本を読むまえから、そういう本はしかいに入れないようにしているので、こんごともそれはまもっていきたいとおもいます。