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命を「いただく」こと、そして感謝すること。

私たちが普段食べているお肉。それは、牛肉や豚肉、それから鶏肉など、私たち人間の大切な栄養源であり、食卓を豪華にするものかもしれない。そのお肉はどこで誰が生産して、誰がどのようにお肉にしているのか、考えたことあるだろうか。

私は、今日「クルックフィールズ」というところで、「生きる力を養う学校〜命をいただく〜」というワークショップに参加してきた。それはかなり強烈な体験だったけど、その新鮮な思いをそのまま書き残しておきたいと思い、Noteを書く。

鶏を絞めるという体験

私が体験したのは、「鶏を絞める」というものだ。ワークショップが始まり、最初に案内されたのは、今日食べる5羽の鶏のところだ。羽をバタバタさせて、元気に餌を食べていた。茶色くて可愛いメスの鶏だ。30名の参加者と個性的なスタッフが10名ほどいて、全員自己紹介をした。

そして、今回「鶏の締め方」と料理を作ってくださったのが、普段は京都の山中で「田舎の大鵬」を主宰する渡辺幸樹氏だ。まず最初に渡辺さんが、みんなが見守る中、1羽目の鶏を絞めた。

鶏の羽をクロスにし、脚を持ちしっかり固定する。その時に、すごくキーキーと鳴いて、体もバタバタさせて抵抗していたことがわかった。そのまま首の大動脈があるとこりに包丁で切れ込みを刺した。どんどん出てくる血。それでもまだ抵抗して痙攣している鶏。私はそれを見た時に涙が出てきた。命が1つなくなっていくことを感じた。

それから、ほとんど全部の血が体から出ていき、痙攣は止まった。鶏は体温が40℃以上で高い動物だから、触るととても温かかった。その後、80℃くらいの熱湯に入れ、羽を取りやすくしそのまますぐ鶏の羽を剥いだ。

クルックフィールズの産卵鶏

クルックフィールズで飼われている鶏は、お肉になる鶏(ブロイラー)ではなく、卵を産む鶏(産卵鶏)だから、2年卵をたくさん産んできた鶏だった。品種改良によって毎日卵を産まされているから、体に負担がかかり羽はところどころはげていた。そして、お肉としては身も少なく固いから、唐揚げなどの調理には向いていないそう。

皮も硬く、毛根もしっかりしているため、羽を剥ぐのもブロイラーに比べたらとても大変らしい。一つひとつ削いだ後、水で洗い流したら、もういつも食べている鶏肉の見た目に変わってしまっていた。

最初に膀胱に包丁を入れ、うんちを出し、その後内臓を出していく。さらに、喉のところにある餌袋も取り出した。鶏は体温が高いから普段は内臓はすぐ腐ってしまうため食べれないらしい。でも、今日は新鮮だからシェフが調理してくれると言っていた。

内臓からは、明日にも生まれるだったであろう卵が出てきた。最初に黄身、その後白身ができて、殻が最後に作られるんだって。鶏の胎盤?みたいなところには、小さな黄身がたくさんあった。

餌袋の中、砂肝の中、腸の中の餌を取り出すこともやった。クルックフィールズで飼われている鶏はとてもいい餌を食べているから、全然臭い匂いがしなかった。

そして、全て内臓を取り出し、綺麗にした後、部位ごとに切っていった。産卵鶏は食べられる部分のお肉が本当に小さくて、いつもスーパーで見るもも肉やささみの大きさの10分の一くらいだった。ほとんどが内臓と鶏がらでできていたことがわかる。それだけやっぱり卵産むってすごいことなんだね。

2, 鶏小屋に見にいく


鶏小屋

鶏小屋に見学に行くと、広いスペースに本当にたくさんの鶏がいた。運動場に餌を投げると集まってくる鶏たち。とても一生懸命生きていることを感じた。そこには1匹のオス鶏と1匹の番犬がいて、メスの鶏たちを守ってくれるそう。

先ほど書いたように、産卵鶏は品種改良で普段は1週間に1回生まれるはずの卵を毎日産んでいる。だから孵化することをしないみたい。1代限りで終わったしまうから、別のところで卵の孵化も両立してやっていくそう。なんか人間の効率的・合理的な都合勝手な品種改良だなと感じてしまった。でもそのおかげで、卵をたくさん食べれて、鶏も食べれていると思うと、すごく複雑な気持ちになる。

3, 野菜を収穫して、それから

クルックフィールズで取れる新鮮な野菜を、自分たちで収穫させてもらった。その場で味見で食べたミニトマトはほんっとうに甘くて美味しかった。

トマト

 そして、食事の時間となった。自分たちが採った野菜と絞めた鶏を渡辺さんに調理していただき、みんなで「いただいた。」

こういう体験をした後に、今まで「いただきます」と言って食べてきた感覚とはまた違う、心から感謝して命を「いただく」、「いただきます」と言えた気がした。そして、心から味わって食べることができた。大切な命をいただいているから、残してはいけないという思いで、お腹いっぱいだったけど、残さず食べた。そうじゃないとなんか嫌だった。

今までの「いただきます」は、作ってくれた人に対して言っていた感覚が大きかったのかもしれない。でも、本来食べることって、それだけではない。「命をいただいている」のだ。簡単なようで難しことだ。今日は、それをすごく感じた日だった。

こうやっていつも食を気にしながら生活することは難しい。でも、今日から私にもできることってなんだろうって考えたら、「命をいただくことに感謝すること」そして、「残さず食べること」なのかなって思った。

そして、今日このイベントに誘ってくれた、私の愛する人。本当にありがとう。こういう経験って本当に今できるところが少ないから、すごく貴重な経験になったし、大切な思い出にもなったよ。これからは、「いただきます」「ごちそうさま」を心を込めて言って命をいただける人になりたいな。と思いました。


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