損得勘定にまみれたエリートたち~偏差値競争が生み出した悲劇~
Noblesse Oblige(日本語訳:高貴なる者の義務)の概念は、欧米のエリート層にはとても浸透しています。
地位が高い人間は、社会に対して価値を提供することが責務です。
ビルゲイツ等の資本家が慈善活動を行う原動力となっています。
この概念の下では、自分の利益だけを重視する考えは悪と見なされます。
この価値観は日本では根づいていません。
日本は弱者切り捨ての自己責任社会です。
社会保険は整備されていますが、セーフティネットは充実していません。
日本では、エリート層が弱者切り捨てについて、何も疑問を抱いていないのです。「努力・我慢しなかったお前が悪い。」と一蹴すれば良いからです。
切り捨ては、高度経済成長の頃から、酷かったわけではありません。
酷くなった時期は、70年代後半に入ってからです。
この時期は、偏差値エリートが社会へ出始めたからです。
その後は2010年頃まで、切り捨てへの容認が徐々に強くなります。
つまり、受験競争で偏差値に晒された世代(50年代前半生~)が
社会を占めるにつれて、切り捨てへの疑問が薄くなっていくのです。
偏差値エリートは、保守的で体制維持の姿勢を採る傾向にあります。
自分たちだけが良ければ良いと考えているからです。
損得勘定しか頭にありません。社会全体の利益など、どうでも良いのです。
一方、60年代・70年代の文字通りのエリート層は、保守が少なかったです。
当時、保守=知的でない・旧体制維持。一方、革新=知的・リベラルのイメージでした。
現にこの時代、エリート層が多い東京都・京都府の知事は、
旧社会党・共産党系の革新系知事でしたからね。
今では考えられません。
偏差値エリートが多いエリアは、自民党へ票を入れます。
なぜ、偏差値エリートは、自分の利益しか考えなくなったのか。
偏差値競争による過度なランク付けが1番の原因です。
偏差値が、自分がどれだけ優れているか示すための道具と化したのです。
(本来は、志望校へ合格する可能性を判断するためにつくられたのですが…)
偏差値が高い=有名な大企業に入社しやすい=お金持ちになりやすい。
「良い大学。良い会社。」の価値観に熱狂した若者は、競争で負けた人間に対して厳しいです。「勉強しない、勉強できないお前が悪い。」と内心思っているのです。偏差値が高い大学へ入学して、大企業に入社して、出世したら、弱者に何しても良いと考えているのでしょう。
そんな偏差値エリートが、社会の中核を占めるようになったら、
既得権益まみれとなります。自分の地位を手放しません。少子高齢化・経済衰退・国の借金増大といった問題の本質に気がつきません。
社会が見えていないからです。自分が良ければ、日本の将来はどうでも良いのです。
偏差値競争は、勉強だけ出来る無気力人間を生み出したのです。
地位獲得に対してはアグレッシブに見えて、楽したいという欲望まみれの面従腹背人間とも言えます。
ある意味、そんな教育を受けた偏差値エリートも被害者です。