蘇我馬子と物部守屋
蘇我氏(そがうじ、そがし)は、「蘇我」を氏の名とする氏族。
姓は臣(おみ)。
蘇我 - 『日本書紀』
宗賀 - 『古事記』
宗我 - 『先代旧事本紀』天孫本紀、『上宮聖徳法王帝説』、『日本三代実録』
巷奇 - 『元興寺縁起帳』
『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した
武内宿禰を祖としている。
古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、
代々大臣( オホマヘツキミ )を出していた有力豪族である。
河内の石川(現在の大阪府の石川流域:『日本三代実録』)および葛城県(後の大和国高市郡)蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり:『紀氏家牒』)を本拠としていた土着豪族であったとされる。
『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。
蘇我氏は「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田、須恵器、 綿、馬の飼育の技術など大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王 権の実務を管掌することによって政治を主導することになった。
仏教で対立
崇仏派の蘇我馬子
排仏派の物部守屋
用明天皇崩御で、皇位を巡って争いになり、蘇我馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、物部守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて軍事氏族である守屋討伐の大軍を起こした。
厩戸皇子もこの軍に加わった。
討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。
討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に弓矢で射殺された。
この戦い(丁未の変)の後、物部氏は没落し、日本の仏教は守られることとなる。
戦後、蘇我馬子は、用明天皇を退位させ、姉の子に当たる泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を崇峻天皇(すしゅんてんのう)として即位させます。
操り人形だった崇峻天皇は、貢物の猪を見て、「この猪の首をはねるように、私もいやなやつの首をはねたい」と呟(つぶや)いた。
それを知った蘇我馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を暗殺させ、姪にあたる推古天皇を即位させた。
崇峻天皇は、日本の歴史上、唯一暗殺された天皇となる。実行犯は朝鮮人
推古天皇は即位の際、蘇我馬子にひとつの条件を提示しました。
それは、甥の聖徳太子を摂政の座に据えることでした。
推古天皇は、皇室史上初の女帝である。
推古天皇の父は29代「欽明天皇」(きんめいてんのう)、
母の「堅塩姫」(きたしひめ)は「蘇我稲目」(そがのいなめ)の娘。
厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
厩戸皇子の父は用明天皇、母は父の異母妹、蘇我一族の穴穂部間人皇女です。
穴穂部間人皇女が宮中を散歩中、厩戸の前で太子を出産したことから厩戸皇子と呼ばれました。
推古天皇8年(600年)に朝鮮の新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
のちの時代の尊称である聖徳太子の業績は、「遣隋使」「冠位十二階」「十七条の憲法」「法隆寺建立(仏教を広める)」など国家体制を整え、天皇による中央集権を進めた人物でした。
推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。
小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に「国書」を送った。
翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。
日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(皇帝 倭皇に問ふ)とある。
これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「東天皇」としている。
この返書と裴世清の帰国のため、小野妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。
日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。
『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)聖徳太子によって著されたとされる
『法華義疏』(伝 推古天皇23年)『法華経』の注釈書
『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年)『勝鬘経』の注釈書
『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年)『維摩経』の注釈書
推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は蘇我馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
蘇我 入鹿(そが の いるか)は、蘇我馬子の孫で飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。
大臣として大和朝廷の最上位有力者であったが、皇位継承や政治方針において対立関係にあった中大兄皇子・中臣鎌足らによって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。
後日、父・蝦夷も自害し、蝦夷と入鹿の一族も皆殺しとなった。乙巳の変
歴史教育
蘇我氏の権力は天皇を上回るほど強大であり、次第に蘇我氏の横暴が目立つようになっていきました。 そこで、天皇家の一族が権力を取り戻すためにクーデターを起こし、蘇我氏を滅ぼしたのです。と中学の歴史教育で教わる。
聖徳太子亡きあと、勢力を強めた蘇我氏に危機感をもった中大兄皇子は、中臣鎌足とともに蘇我氏を倒す。
豪族を中心とした政治から天皇中心の政治を目指し、大化の改新を行ったと教えられている。
大化の改新は、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変(蘇我入鹿の暗殺による蘇我氏の滅亡)に始まる一連の国政改革。
狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。
改革そのものは、中大兄皇子・大海人皇子の年若い両皇子の協力によって推進された。
中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は、退位した皇極天皇に代わり、その弟の軽皇子を即位させた→孝徳天皇
孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして、日本で初めての元号「大化」を定めたとされる。
「天をもおそれる大悪人」は天皇の御前での抜刀と殺害を正当化する詭弁?
蘇我氏は外敵から飛鳥の都を守ろうとしていた
遣唐使を度々派遣して唐の動向を探っていた。
蘇我氏は元来開明的だった事もあり、当時の国際状況に対応するための軍備をしていた。
「上の宮門」「谷の宮門」の跡地とされる場所からは武器庫の遺構や武器が発掘されており、西から侵攻してくる唐(中国)、百済、新羅軍(朝鮮)から飛鳥の都を守護するために蘇我氏が用意したとも考えられる。
近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方がある。
武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね)は、
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えた忠臣である。
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。