句点の降る浴室。
「。」が浴室に降る。
元清掃員の知見を総動員してタワシを握っていたとき、水滴が「。」となって降ってきた。
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こんな具合に。
頑固な汚れにうんざりしていたけれど、この発見で私は「ついに詩人の感性が備わったか」と気をよくした。私は単純なのだ。
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小説や詩集を読んでいると、その瑞々しい感性に圧倒される。
いつも「言わんこっちゃナイト」だの「○○みが深い」だの、ネットミームを見てはケタケタ笑っている私も、やはり彼らの感受性が羨ましい。
たとえば私は、散歩中に美しい夕焼けを見たとしても「夕焼けだなあ」としか感じることができないのである。もっとひどいときの感想は「エモみが深い」だ。
これが作家ないしは詩人だとしたら、それを見ている人物の心境に合わせて言葉巧みに表現するのだろう。
「血のような夕焼けだ」とか「西空が赤みを帯びている」とか、そういった類のやつだ。
たとえ私が見ていた「エモみが深い」夕焼けすらも、彼らにかかれば、この世の終焉のようにも、すべてを浄化してくれる神聖な空間のようにも見せられるのだ。いやはや恐ろしい観察眼である。
私は何かを感じても、その感情にピタリとくる言葉を探すのが下手くそなのだと思う。だから「ヤバい」のような、便利で汎用性の高い言葉を代入して会話をやりすごしてしまうのだ。
色々な言葉を見聞きしているつもりではあるものの、それがどこにも引っかからずに通り抜けてしまうのだろう。私の脳みそフィルターには、大穴が空いているに違いない。
*
ピカピカになった浴室で、久しぶりに湯船に浸かってみようと思った。
考え事をしている頭にも、「。」は無数に降る。
シャワーから噴出した「。」は私に体当たりしたあと、さらに小さい「。」となって排水溝で合流し、去っていく。
「。」を浴びた肌が赤くなっているのを見て、「あぁ、熱すぎるのだな」と気づき、給湯器の数字を47から45へ変更した。
私は極度の猫舌のくせに、風呂の湯に関しては鈍感らしく、よく知人に驚かれる。毎日シャワーで済ませてしまうのも、湯が熱すぎることに気がつかず、うっかりのぼせてしまった経験からだ。
あらかじめ張っておいた47℃のお湯は、少し水でうめてから浸かった。「ぬるい」と思ったけれど、額から玉の汗が吹き出てきたので適温なのだろう。
ふと、汗は「。」じゃないな、と思った。
「。」は、ほとばしらない。「。」は、何かしらの輪郭に爪を立てるようにしがみついて、だけれど呆気なく力尽きて降るのだ。
だから汗は「っ」だと思う。縦書きなら「し」だ。
水面から片腕を上げて、指先から落っこちていく「。」を見てみた。大勢の「。」がちゃぴぴぴ、と音を立ててお湯に溶けていく。
しぶとく残っていた「。」も、やがてぴちょん、ぴちょんと果てていった。
「。」を観察するのは楽しい。
小さい頃、「早く風呂に入れ」と叱られ、入ったら今度は玩具に夢中になり「早く出ろ」とまた叱られた思い出が蘇る。
あのときから私はうんと年を取ったけれど、何かに夢中になって長湯をしてしまうところは少しも変わっていないのだな、と感じた。
今日も「。」は浴室に降るのだろう。
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