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レインボー悪口🌈
若者言葉・流行語・ネットミーム。この世にはあまりにも多種多様な俗語があり、日々生まれ、局所的に使われ、いつの間にか廃れ、風化を免れた幾つかは汎用性という成長を遂げて市民権を得ている。マンボウの卵みたいだ。
喋り言葉で語尾に「草(笑、の意)」をつける奴はキモいと誰かが言ったが、どうせ数世代遅れて大衆メディアで使用される頃には違和感なんて無くなってるだろう。(笑)も「www」という表記も、今や汎用表現だ。だから日の光を拒む風習があるオタクのくせに、結局は権威的な風潮にしかポジショニングできないのかよ、と唾を吐きたくなるし、そういうキモさが脱臭されてから参入するのがせめてもの清潔感なのかな、とも思う。清潔感って往々にしてただの顔面偏差値のことだけどな。でも「ワロタ」はキモいオタク語のまま死語になりましたよね?
まあそんな誰かのスタンスも、スラングの単語自体の意味ではなく、社会的に語句がどう認知されているか、その印象論の如何によって使用を決めている面白い例の一つだ。語句とは情報伝達の手段のみに非ず。語句とは、世界を定義し、世界を認知するツールでもあるのだ。
国語辞典を片手に正しい日本語を使用することは大変結構なことだけど、今やその国語辞典側が掲載語句の収集・取捨選択に苦心していると聞く。出版社の実情は知れずとも、ネットを傍観していれば容易に想像できることだ。造語、あまりにも多すぎる。おじいちゃん国語教師と高校生達は相互補完の関係になり得るだろう。
中でも、蔑称。
子供っぽく言うなら悪口。
この分野一つ採り上げても、その多さっぷりは計り知れない。適応範囲の大小を問わないのなら、それこそ匿名掲示板とかファンコミュニティの中とか、一部でしか通じないような略語・隠語までをも含め、無数といっても過言ではないだろう。日本語には「バリエーションの豊富な」という意の比喩表現として「七色の・虹色の」なんて言葉が存在するけど、まさに世界は七色の悪口で満ちていると言えよう。なんなら「ウザい」って感情をプリズムに通したのなら、シチュエーション毎に区分されたネット造語で溢れ返っておよそ七色じゃ足りなさそうだ。
ていうか、蔑称ってあまりにも直接的だったり差別的だったりすると諸々の法やルールに抵触するから、そもそも婉曲表現が育ちやすい地盤がある気がする。そうでなくとも隠語って仲間意識を高めるし、それが攻撃的な意図を孕んでいれば、排斥対象を一般化・共有して団結もできる。いわゆる「共通の敵」というやつだ。
そういえば中学生の頃、ちょっと浮いた行動や、おかしな言葉を発した同級生に対して、揶揄や非難の文脈で「ハチクミ」と呼ぶローカル語が学内で流行していた。意味不明だと思うけど、これは完全に蔑称である。ハチクミとは八組のこと。ルーツはというと、一学年の通常クラスが七組までで、特別支援学級が八組だったから……。つまり、脳や体に障害を持つ生徒を受け入れる少人数クラスが八組だった訳ですね……。
本当によくないですね。でも中学生なんて、モラルや道徳より生理的な感覚で価値判断しがちな生き物だ。純粋な悪気や害意が無かったとしても、むしろ軽率なノリで浸透したからこそ、差別的な言葉が濫用されていたという背景は決して想像し難いことではないと思う。教師も一応窘めてはいたけど、生徒間のローカルコミュニケーションまで管理できるはずもなく、まあ焼け石に水だった。
教育的な観点では決して褒められた現象では無いが、言語の恣意性や若者言葉の発生~流行までのモデルケースとしてはありがちな事例だったな、と今では思ったりするものだ。
年齢・時代柄の二側面でインターネットが日常化したころには、「KY」「ファビョる」「キョロ充」「マジキチ」「イキる」辺りの言葉を頻繁に耳にしたなと思う。まあその手の造語自体は昔から幾らでもあったろうけど、リアルタイムで流行を体験していたという意味でね。ジベタリアンという言葉とか、知識として存在は知ってるけど馴染みが無さ過ぎるからね。
「KY(空気が読めない人・言動、の意)」なんかは本当に流行っていた。クラスで意味を知らない奴なんて一人も居なかったし、猫も杓子も揃ってKYKYKYと連呼していた気がする。「ウザくて、浮いてて、無自覚に輪を乱す、ありがちな人・言動」。その漠然としたフラストレーションを、KYという概念で括ることで周囲と共有したかったんだなと思う。この「共通認識化への希求」は、悪口に限らず言語そのものに秘められた、人間という社会的動物の本質が表れていると思う。正体不明の怪物を名付けによって一般化することは古よりの慣習だ。
語句とは世界を認知し定義するツールだ。だから語彙が豊富であるかどうかとは、単なる知識の多寡に留まる話ではない。それは世の中を知覚する際の着眼点になり、認識や思考の基点になるのだ。
「吝嗇」という言葉を知れば過度な節制は必ずしも美徳とは限らないと気付くことができるし、「衒学」という言葉を知れば知識のひけらかし行為がウザがられる可能性を自覚できるだろう。……最近の例で言うなら、「おじさん構文」という単語を聞き及んで、同じ轍を踏むまいと自戒したおじさんは多い(?)だろう。
そのように考えると、語句──特に新生して急速に広まる流行語なんか──は、特に時代柄や界隈の価値観が色濃く反映されている言える。若者の、ネットの、流行の、あるいは特定コミュニティの、特徴的な悪口を調べてみれば、どんな発言や行動が忌み嫌われているのか、その文化的性質を理解する助けにもなるだろう。
そういう視点で思考してみれば、悪口とかいう目にするだけでネガティブな印象を抱きがちな語彙に対して、あるいは学術的な興味深さを見出すこともできるかもしれない。
ほら、世界の認識がちょっとだけ変わって、「七色の悪口」だなんてふざけたワードも少しはマシ思えてきたでしょう?
余談だけど、有名なうんちくに「虹の色数は国によって違う」というものがある。日本では虹=七色という見解が一般的だが、国や民族によっては8色とか6色とか4色とか、様々だったりするのだ。この事実もまた、価値観や言語や文化の違いによって、世界をどのように認知し、定義しているかという特徴の表れという訳だ。
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