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沈黙が怖かった。でも沈黙も、あっていい。
こんばんは〜honaです!毎日投稿中です!
今日は、沈黙を恐れている自分を深堀りしてみた話を残そうと思います。
誰かと会話する時、どうしても最後まで相手の話や言葉が終わるのを待てずに、「そうですよね〜」と頷いたり、「そうそう」と話し始めてしまう時があるな、と自覚しています。
つまり、相手との会話のなかで、沈黙を避けている自分がいるんです。
その原因は、なんなんだろう?
焦っているのか?それとも相手に共感していることを相手にもっと理解してほしいのか?沈黙が怖い?何も考えてない若しくは頭の回転が遅いと思われるのが怖いのか?と、ゆるゆると考えていました。
改めて考えることになったきっかけは、先日記事にも残した「誰が国語力を殺すのか」です。
書籍の中で、国語力の養成に力を入れている授業として「哲学対話」が紹介されており(授業の詳細は私の記事、もしくは書籍をぜひご参照ください!とても面白いです)、そのなかで学校の教頭先生がこのように語ってくれていました。
「埼玉での経験から、哲学対話が生徒に素晴らしい影響をもたらすのは明らかでした。哲学対話で行うのは、最近ブームになっている〝論破〟とは真逆のことです。人の話をきちんと聞き入れた上で、自分の意見を述べ、さらにいろんな人たちとの対話の中で思考を深めて柔軟に自分の意見を変えていく。答えがないわけですから、沈黙も一つの表現として見なされます。」
この「沈黙も一つの表現とみなされる」という部分を読んで、そうか沈黙も自分の考えを表すことになるのか、振り返れば自分は、あえてこの沈黙を避けるようにして言葉を紡いでしまっていたんじゃないか。
ではそれはなぜか?
、、、色々と考えましたが、自分自身はもはや身に染み付きすぎて「条件反射」になってしまっているので、よくわからない。。
じゃあ、会話の相手に視点を移したら、どうかな?
よくよく考えてみると、自分自身が沈黙を避けて喋るだけでなく、相手が会話の間で沈黙になると不安な気持ちになるな、と思いました。
なぜだろう?
恐らく、相手がその沈黙の間に、何を考えているかが読めなくて不安になるからではないかと。もしかして私にとって悪いこと考えているんじゃないかと、無意識に考えてしまっている気がします。
そういう意味では、私は非言語コミュニケーションと言われる、いわゆる人の表情を読むのも苦手なのかもしれません。たしかに人の顔をじっと観察するのも、結構苦手です。
しかしながら、上述の書籍に出会い、「沈黙も、表現の一部だ」と言う認識を持つことができたのは、私にとって発見だったと思います。
思い返せば、私の友人で、じっくり考えてから自分の意見を言う子がいて、しかもその意見がすごくしっかりしていることに、いつも感心していました。
その彼女との会話では、彼女独特の「間」があります。最初は「どうしたんだろう?」と思ったこともあったけど、それもしばらく付き合っていけば慣れて、「ああ今きっと何か考えているんだろうな」と思うようになりました。
ああなんだ、じゃあ私もまずは真似して、そうやってみようかな。
今、条件反射でやってしまってる適当な相槌とか返事とかをぐっと抑えて、その彼女みたいに、沈黙を恐れずに、むしろ多少沈黙してもきっと問題ないから、少し考えてから自分の言葉を紡いで、発言するようにしていこう。
そんなふうに考えられるようになりました。
そしてそのためには、自分の考えを普段から言語化することもすごーく大事ですね。noteという場があって、本当に有難いです!
では今日はこのへんで。
最後までお読みいただきありがとうございました!
hona